新日本の進路
石原莞爾將軍の遺書
石原莞爾
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一、人類歴史は統制主義の時代にある
フランス革命は專制主義から自由主義えの轉換を決定した典型的自由主義革命であり、日本の明治維新もこの見地からすれば、自由主義革命に属する。自由主義は專制主義よりも遙かに能率高き指導精神であつた。しかるに第一次大戰以後、敗戰國もしくは後進國において、敗戰から立上り、或は先進國に追いつくため、自由主義よりも更に能率高き統制主義が採用された。ソ連の共産黨を含み、あらゆる近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、遲れ馳せながらスペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等はいづれもこれである。依然として自由主義に止つた諸國家も、第二次大戰起り、ドイツのフランス、イギリスにたいする緒戰の壓倒的勝利、さてはドイツの破竹の進撃にたいするソ連の頑強なる抵抗を見るにおよんで、自由主義をもつてしては到底統制主義の高き能率に匹敵し得ざることを認め、急速に方向を轉換するに到つた。
自由主義は人類の本能的欲求であり、進歩の原動力である。これにたいし、統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となつている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がずつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲ぐるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來つたのである。
專制から自由え、自由から統制えの歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。
二、日本は統制主義國家として獨立せねばならぬ
アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。
ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制えの前進をなし得ず、ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。かく觀じ來れば、世界は今日、統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。
この觀察にはいまだ徹底せざる不十分さがあるかも知れぬが、日本が獨立國家として再出發するに當つては、共産黨を斷然壓倒し得るごときイデオロギー中心の新政黨を結成し、正しき統制主義國家として獨立するのでなければ、國内の安定も世界平和えの寄與も到底望み得ざるものと確信する。
もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によつて、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。
三、東亞的統制主義の確立――東亞連盟運動の回顧
世界はその世界性と地方性の協調によつて進まねばならぬ。東亞の文化の進み方には、世界の他の地方と異る一つの型がある。故に統制主義日本を建設するに當つても、そのイデオロギーは東亞的のものとなり、世界平和とよく協調しつつ東亞の地方性を保持して行かねばならぬ。
前述のごとく、幾多の統制主義國家が專制主義に後退した。しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蒋氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。
しからば日本はどうであるか。大政翼賛會は完全に失敗したが、私の関係した東亞連盟運動は、三民主義や新民主主義よりも具体案の点において更に一歩進んだ新しさを持つていたのではないかと思う。この運動は終戰後極端なる保守反動思想と誤解され、解散を命ぜられた。それは私の持論たる「最終戰論」の影響を受けていたことが誤解の原因と想像されるが、「最終戰論」は、これを虚心に見るならば、斷じて侵略主義的、帝國主義的見解にあらず、最高の道義にもとづく眞の平和的理想を内包していることが解るであろう。東亞連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのである。
東亞連盟の主張は、經濟建設の面においても一の新方式を提示した。今日世界の經濟方式は、アメリカ式かソ連式かの二つしかない。しかしこれらは共に僅かな人口で、廣大な土地と豊富な資源のあるところでやつて行く方式である。日本は土地狹く資源も貧弱である。しかも人口は多く、古來密集生活を營んで來た文化的性格から部落中心に團結する傾向が強い。こんなところでは、その特殊性を生かした獨自の方式を採用せねばならぬ。アメリカ式やソ連式では、よしトルーマン大統領やスターリン首相がみづから最高のスタツフを率いてその衝に當つても、建設は成功し難いであろう。東亞連盟の建設方式によれば、國民の大部分は、各地方の食糧生産力に應じて全國農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として一村を構成し、食糧を自給しつつ工業其他の國民職分を擔當する。所謂農工一体の体制である。しかして機械工業に例をとれば、農村の小作業場では部品加工を分擔しこれを適當地域において國營もしくは組合經營の親工場が綜合統一する。この種の分散統一の經營方式こそ今後の工業生産の眼目たるべきものである。しかしてかくのごときは、事情の相似た朝鮮や中國にも十分參考となり得るのではあるまいか。
また東亞連盟運動は、その實踐においても極めてデモクラチツクであり、よくその統制主義の主張を生かした。組織を見ても、誰もが推服する指導者なき限り、多くの支部は指導者的支部長をおかず、すべて合議制であつた。解散後數年を經た今日、尚解散していないかのごとく非難されているが、これは運動が專制によらず、眞に心からなる理解の上に立つていた實情を物語つている。
今日私は、東亞連盟の主張がすべて正しかつたとは勿論思わない。最終戰爭が東亞と歐米との兩國家群の間に行われるであろうと豫想した見解は、甚しい自惚れであり、事實上明かに誤りであつたことを認める。また人類の一員として、既に世界が最終戰爭時代に入つていることを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈つている。しかし同時に、現實の世界の状勢を見るにつけ、殊に共産黨の攻勢が激化の一途にある今日、眞の平和的理想に導かれた東亞連盟運動の本質と足跡が正確に再檢討せらるべき緊急の必要ありと信ずる。少くもその著想の中に、日本今後の正しき進路が發見せらるべきことを確信するものである。
四、我が理想
イ、超階級の政治
マルクスの豫言によれば、所謂資本主義時代になると社會の階級構成が單純化されて、はつきりブルジヨアとプロレタリアの二大陣營に分裂し、プロレタリアは遂に暴力革命によつてブルジヨアを打倒するといわれている。しかしこの豫言は、今日では大きく外れて來た。社會の階級構成はむしろ逆に、文明の進んだ國ほど複雜に分化し、ブルジヨアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増加しつつあり、これが社會發展の今日の段階における決定的趨勢である。共産黨はかかる趨勢に對處し、プロレタリアと利害一致せざる階級或は利害相反する階級までも、術策を弄して自己の陣營に抱込み、他方暴力的獨裁的方式をもつて、少數者の獨斷により一擧に事をなさんとしている。しかし右のごとき社會發展の段階においては、國家の政治がかつてのブルジヨアとかプロレタリアのごとき、或階級の獨裁によつて行われることは不當である。我等は今や、超階級の政治の要望せらるべき時代を迎えているのである。
今日までの政治は階級利益のための政治であつた。これを日本でいえば、民主自由黨はブルジヨアの利益を守り、共産黨がプロレタリアの利益を代表するがごとくである。しかるに政治が超階級となることは、政治が「或階級の利益のために」ということから「主義によつて」「理想のために」ということに轉換することを意味している。ナチス・ドイツやソ連の政治が共にイデオロギーの政治であり、アメリカのデモクラシーも最近ではイデオロギー的に変化して來たこと前述の通りであるが、これらは現實にかくのごとき世界的歴史的動向を示すものである。かくして政治はますます道義的宗教的色彩を濃厚にし、氣魄ある人々の奉仕によつて行わるべきものとなりつつある。
私は日蓮聖人の信者であるが、日蓮聖人が人類救濟のために説かれた「立正安國」の教えは、「主義によつて」「理想のために」行われる政治の最高の理想を示すものである。「立正安國」は今やその時到つて、眞に實現すべき世界の最も重大なる指導原理となり來つたのである。人は超階級の政治の重大意義を、如何に高く評價しても尚足りぬであろう。
ロ、經濟の原則
超階級の政治の行わるべき時代には、經濟を單純に、資本主義とか社會主義とか、或は自由經營とか官公營とか、一定してしまうのは適當でない。これらを巧みに按配して綜合運用すべき時代となつているのである。ここにその原則を述ぶれば次のごとくである。
第一。最も國家的性格の強い事業は逐次國營にし、これが運營に當るものは職業勞働者でなく、國家的に組織されたる青年男女の義務的奉仕的勞働たるべきである。我等はブルジヨアの獨裁を許し得ざるごとく、プロレタリア、つまり職業勞働者の獨裁をも許し得ざるものである。
第二。大規模な事業で、國民全体の生活に密接なる関係あり、經營の比較的安定せるものは逐次組合の經營に移す。かくして國家は今後組合國家の形態に發展するであろう。戰爭準備を必要とする國家においては、國家權力による經濟統制が不可欠で
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