するものである。統制主義はかくのごとき社會發展の途上において、自由を更にのばすための必要から生れた、自由主義よりも一歩進んだ指導精神である。
しからばこの間、全体主義は如何なる立場に立つものであるか。第二次世界大戰以後、全体主義にたいする憎しみが世界を支配し、その昂奮いまだ覺めやらぬ今日、これにつき種々概念上の混迷を生じたのは無理からぬことであるが、これを明確にせぬ限り、眞に自由なる世界平和確立の努力に不要の摩擦を起す惧れが多分にあり、特に行過ぎた自由主義者や共産黨の陣營において、かつて獨善的日本主義者が自己に反對するものは何でも「赤」と攻撃したごとく、自己に同調せざるものを一口に「フアツシヨ」とか、「全体主義」とか、理性をこえた感情的惡罵に使用する傾向あることは十分の戒心を要するであろう。即ち全体主義に関する我等の見解は次のごとくである。
世界は多數の人の自由をますますのばすために統制主義の時代に入つたが、人口多くして土地、資源の貧弱なるイタリア、ドイツ、日本特にドイツのごとき、清新なる氣魄ありしかも立ちおくれた民族は、その惡條件を突破して富裕なる先進國に追つくため、却て多數の人の自由を犧牲にし、瞬間的に能率高き指導精神を採用した。尤もナチのごときでも國民社會主義と稱して居り、決して前時代そのままの個人の專制に逆轉したわけではないが、國民全体のデモクラシーによらず、指導者群に特殊の權力を與えて專制を許す方式をとつたのである。しかるに恐るるものなき指導者群の專制は、個人の專制以上に暴力的となつたことを我等は認める。これを世間で全体主義と呼んでいるのは正しいというべきであろう。かくしてムツソリーニに始められた全体主義は、ヒトラーによつてより巧みに利用され、日本等またこれに從つて國力の飛躍的發展をはかり、遂にデモクラシーによつて順調に進んでいる富裕なる先進國の支配力を破壞して世界制覇を志したのが、今次の大破局をもたらしたのである。
この間すべてを唯物的に取運ばんとするソ連は、今日アメリカと世界的に對抗し、眞のデモクラシーを呼號しつつ、實はナチと大差なき共産黨幹部の專制方式をとり、一般國民には多く實情を知らしめない全体主義に近づいているが、日本共産黨はみづからこの先例に從つて全体主義的行動をとりつつあるにかかわらず、眞の自由、眞のデモクラシーの發展をもたらさんとする
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