軍は多数の降伏者を生じ、六月四日にはダンケルク陥落、遂にこの方面の作戦を終了した。
 僅々二週間で和、白両国は降伏。英仏軍の有力なる部隊は撃滅せられその一部が辛うじて本国に逃げ帰った。
 六月五日には独軍は早くもソンムの強行渡河に成功、仏国の抵抗意志は急速に低下して到るところ敗退、六月十四日独軍パリに入城、六月二十五日休戦成立した。
 ドイツの作戦はまるで神業のようで持久戦争の時代は過ぎ去り、再び決戦戦争の時代到来せるやを信ぜしめる。しかしそれについては充分慎重な観察が必要である。
 先ず第一に戦術上の観察を試みよう。独軍の成功は主として飛行機、戦車の威力であった。第一次欧州大戦当時に比して、この両武器は全く面目を一新しており、殊に飛行機が軍事上の革命を生ぜんとしている事は確実である。しかしこの両武器に対して、しかく簡単に正面は突破せらるべきであろうか。独軍はたちまち制空権を獲得して思う存分仏軍の後方を攻撃した。ために交通は大混乱に陥り、かつ集団して行動する部隊は絶対なる脅威を受けて動作の自由を失った事は当然である。しかし戦闘展開を終り準備を終えている軍隊に対する飛行機の攻撃はさして大なる威力を発揮し得るものではない。
 戦車は準備なき軍隊、特に狼狽した軍隊に対してはその威力は頗る大きい。けれども地形の制限を受ける事多く、戦場ではほとんど盲唖である。沈着かつよく準備せられた軍隊に対しては左程猛威を逞しゅうし得るものではない。殊に考うべきことは対戦車火器の準備は戦車の準備に比して容易な事である。
 戦車が敵陣地を突破し得てもその突破口が敵に塞がれ、続行して来る歩兵との連絡を絶たれる時は、戦車は間もなく燃料つきて立往生する。であるから真に近代的に装備せられ、決心して守備する敵陣地の突破はなかなか容易の事ではない。
 マジノ線を仏国人は難攻不落のものと信じていた。しかるに独軍占領後の研究に依れば、マジノ線の築城編成は第一次欧州大戦の経験を主として専ら火砲の効力に対抗する事だけを考えて、攻者の新兵器に対する考慮が充分払われていなかった。即ち自由主義フランスはドイツの真剣なる準備に対抗する迫力を欠いていたのである。
 ドイツ軍は空軍と戦車、それに歩工兵の密接なる協力に依って築城の中間地を突破する方式に出て、フランス軍の意表に出たのである。
 殊に自由主義国フランスの怠慢はマジノ線の北端をベルギー国境に託して自ら安心し、迂回し得る陣地であった事である。いわゆるマジノ延長線は紙上計画に止まり大体有事の日、工事に取りかかる考えであったが、開戦後は労働力の不足等の関係で大して工事を施されていなかった。またマジノ線に連接してベルギーがリエージュを主体としてマジノ線に準じた築城を完成する約束であったが、事実は大して工事が行なわれていなかった。
 ドイツ軍は実にこの虚をついたわけである。運動戦となるや独軍の極めて優れた空軍と機械化兵団が連合軍の心胆を奪って大胆無比の作戦をなし遂げ得た。
 あの極めて劣勢なフィンランドが長時日良く優秀装備のソ軍の猛攻を支えた事は今日でもいかに防禦力の大であるかを示している。今度の作戦でもフランデル方面に於て敵の正面に衝突した独軍の攻撃はなかなか簡単には成功しなかったらしいのである。空軍の大進歩、戦車の発達も充分準備し決心して戦う敵線の突破は至難である事を示している。
 第一次欧州大戦では仏、白の戦闘意志は英国のそれに劣らぬものであったが、今回は余程事情を異にしていたらしい。フランスの頽廃的気分、支配階級の「滅公奉私」の卑しむべき行為はアンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』を一読する者のただちに痛感するところである。
 英国の利己的行為は仏、白との精神的結合を破壊していた。数年前ドイツがライン進駐を決行した時、仏国が断然ベルサイユ条約に基づいてドイツに一撃を加うべく主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと伝えられる。真に二国が衷心一致してドイツの進攻に抗する熱意があったならば独、自国境の築城は必ず完成されているべきであったし、今後の作戦についても更に緊密な協同が行なわれたであろう。
 戦略的に見れば戦力の著しく劣った仏国は国境で守勢をとるべきであり、軍当局はこれを欲したであろう。しかし政略はこれを許さない。止むなく有力な主力軍をベルギーに進め、ドイツの電撃作戦に依って包囲せらるるや、利己主義の英国はたちまち地金を現わして本国へ退却の色を見せる。若し英国が真に戦うならば本国は全く海軍に一任し、あらゆる手段を尽してその陸軍を大陸に止むべきであった。英国の態度はベルギーの降伏となり、フランスの戦意喪失となったのは当然である。
 かく考えて来る時は無準備でしかも統一と感激なき自由主義国家と、鉄の如き意志に依り完全にしかも深き感激の下に統一せられ、総力を極度に合理的に集中運用せる全体主義国との対立であって、断じて相匹敵する戦争力の争いではない。即ち時代が決戦戦争となったのでなく、両方の力の著しき差があの歴史上無比の輝かしき決戦戦争を遂行せしめたのである。
 特にこの際我が国民に深き反省を要求するのは、自由主義国家と全体主義国家の戦争準備に対する能力の驚嘆すべき差である。老大富裕国英仏が、戦後の疲れなお医《いや》し切れなかった貧乏国ドイツに対し、ナチス政権確立後僅々数年でかくの如き劣勢に陥ったのである。この事は満州事変後我が国が極東作戦準備につきソ連との間に充分経験した事である。満州事変頃は両国の戦争力相伯仲していたが、僅かに数年のうちに彼我戦力の差に隔りを見た事がその後の東亜不安の根本原因である。
 速やかに我らは強力なる統制の下に世界無比の急速度をもって我らの戦争力を向上せしめねばならぬ。
 今日フランスに対しては輝かしき決戦戦争を完遂したドイツも、海を隔てた英国に対しては殲滅戦略の続行が出来なくなり持久戦争になる公算が依然極めて大きい。ドイツが英国に対し殲滅戦略、即ち上陸作戦を強行するためには英仏海峡の制海権が絶対に必要である。また制海権を得たとしても上陸作戦の困難は極めて大きい。制海権のため海軍力の劣勢なドイツは主として空軍に頼らねばならぬ。我らは常識的に、仏国海岸を占領したなら空軍の優勢なドイツは英近海の海運に大打撃を与え、英国はそれだけでも屈伏するだろうと考えていたが、今日までの結果を見ると飛行機による艦船の爆沈は潜水艦の威力に及ばぬ状態である。英仏海峡は依然英国海軍の支配下にあるらしい。今後果してドイツがこの海峡の制海権を獲得し得るや否やが決戦戦争の能否の第一分岐点である。
 昨年九月以降のロンドン猛爆の結果より見て、今日の発達した空軍でもなお空軍による決戦戦争は不可能のようである。
 要するにフランス革命に依って国民的軍隊が生まれ、職業軍時代の病根を断って殲滅戦略が採用せられ、その威力の及ぶ範囲に於て決戦戦争が行なわるる事となった。しかし兵器の進歩は攻防両者に対する利益は交互的に現わるる傾向があるものの、大勢は防者に有利となり逐次正面の突破を困難にした。それでも兵力少ない時代は敵翼を迂回包囲する見込みがあったのである。正面突破の困難増大し、しかも決戦戦争の要ますます切となって来たドイツが、シュリーフェンの「カンネ」思想を生んだのはこの時代的要求の結果である。
 国民皆兵の徹底が兵力を増大し、人口密度大なる欧州の諸国家では国軍をもって全国境を守備するに足る兵員を得るようになり、遂に迂回を不可能として持久戦争の時代に入ったのである。
 毒ガス、戦車等第一次欧州戦争の末期既に敵正面突破のため相当の威力を示して持久戦争から脱け出そうとあせったが、大戦後は空軍の進歩甚だしく、これに依って敵軍隊の後方破壊と直接軍隊の攻撃に依って敵陣地を突破せんとする努力と、更に進んで敵政治の中心を攻撃する事に依って敵国を屈伏せんとする二つの考えが生じて来、決戦戦争への示唆を与えつつ第二次欧州大戦となった。ドイツは飛行機、戦車の巧妙なる協同に依り敵陣地突破に成功して大陸諸国に対し決戦戦争を遂行した。しかしこれは結局相手国がドイツに対する真剣な準備を欠いたためで、地上兵力に依る強国間の決戦戦争は依然至難と考えられる。
 第二の空軍をもって敵国中心の攻撃に依る決戦戦争は、英、独の間に於ける実験により今日なお殆んど不可能である事を実証した。しかし空軍主力の時代が来れば初めて海も持久戦争の原因とはならない。空軍の徹底的発達がこの決戦戦争を予告し、それも地上作戦でなく敵国中心の空中襲撃に依る事は疑いを入れない。地球の半周の距離にある敵に対し決戦戦争を強制し得る時は、世界最終戦争到来の時である。

   第三章 会戦指導方針の変化

     第一節 会戦の二種類
 戦争の性質に陰、陽の二種あるように、会戦も二つの傾向に分ける事が出来る。
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1 最初から方針を確立し一挙に迅速に決戦を求める。(第一線決戦主義)
2 最初は先ず敵を傷める事に努力し機を見て決戦を行なう。(第二線決戦主義)
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 両者を比較すれば、
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[#ここから2段組、上段]
  第一線決戦主義
一、将帥は決戦の方針を確立して攻撃を行なう。
二、第一線の兵力強大、予備は少し。
三、最初の衝撃を最も猛烈に行なう。
四、偶然に支配せらるる事多く奇効を奏するに便なり。
[#ここで2段組、上段終わり]
[#ここから2段組、下段]
  第二線決戦主義
一、将帥は会戦経過を見て決戦の方針を決定す。
二、極めて有力なる予備隊を設く。
三、最後の衝撃を最も猛烈に行なう。
四、堅実にして偶然に支配せらるる事少なく兵力が最も重大なる要素なり。
[#ここで2段組、下段終わり]
[#ここで字下げ終わり]

     第二節 二種類に分るる原因
 1 武力の靭強性
 2 国民性および将帥の性格
 攻撃威力が強い、逆に防禦の能力の脆弱な戦闘、換言すれば勝敗の早くつく戦闘では自然第一線決戦主義が採用せらる。例えて言えば騎兵の密集襲撃のようなものである。これに反し防禦が靭強である時は急に勝負がつき難い。妄《みだ》りに猪突するは危険で第二線決戦主義が有利となる。それ故この二種類はその時代の軍隊の性格に依る事が最も多い。特に兵器が進歩して来れば来る程、国民性や将帥の性格の及ばす影響が小さくなるのは当然である。
 古代、兵器が極めて単純であった時代は、国民性の会戦指導要領に及ばす影響は比較的大であり得た訳である。ギリシャ人は強大な大集団を作りこれをファランクスと名付けた。この大集団に依る偉大な衝力に依り一挙に決勝を企図したのである。これに対しローマ人はレギオンと称し比較的小さな集団を編制した。これは行動の自由を利用して巧みに敵に損害を与え、敵を攪乱し、適時機を見て決戦を行なわんとするのである。すなわちギリシャ人は第一線決戦主義に傾き、ローマ人は第二線決戦主義を好んだのである。第一線決戦主義は理想主義的であり、第二線決戦主義は現実主義的である。
[#底本232頁右上に図あり]
 蓋《けだ》しギリシャ人は哲学や芸術に秀で、ローマ人は実業に秀でている民族性と会戦方式に相通ずるものが有るを見るであろう。
 田中寛博士の『日本民族の将来』に依れば、古代ギリシャ人は今日のギリシャ人と異なり北方民族であった。
 今日段々高度の武装をなし民族性の影響は昔日に比し大となり難いのであるが、第一次欧州大戦初期の両軍作戦を見るに、固より他にも色々の事情はあったであろうが、ローマ民族に近いフランスは第一第二軍をして先ず敵地に侵入せしめ後方に第四軍等を集結し、戦況に応じて主決戦場を決定せんとする態勢を整えているのに対し、ギリシャ人に近いドイツは主決戦場を右翼に決定、強大兵団をこの目的に応じて戦略展開を行ない、一挙に敵軍の左側背に殺到せんとしたのである。
 今日でもなお民族性が会戦指揮方針のみなら
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