に要求した。ところで次回にオットー中佐は契約書にサインを求めるから読んで見ると「貴官と戦史を研究するがドイツの秘密をあばく事等をしない」と云うような事が書いてあった。オットー中佐はその知人に「日本人は手強い」とこぼしていたそうである。フェルスター中佐の名著『シュリーフェンと世界戦争』の第二版にマース川渡河強行のことを挿入した(四一頁)のはこの結果らしい。今でも愉快な思い出である。フェルスター氏は更にその後アルゲマイネ・ツァイツングに「シュリーフェン伯はオランダも暴力により圧伏せんと欲したりや」という論文を出した。結局オランダを蹂躙するのではなく、オランダと諒解の上と釈明せんとするのである。
[#底本214頁上に地図あり]
ところが一九二二年モルトケ大将の細君がモルトケ大将の『思い出、書簡、公文書』を出版しているのを発見した。それを読んで見ると一九一四年十一月の「観察および思い出」に「……シュリーフェン伯は独軍の右翼をもって南オランダを通過せんとした。私はオランダを敵側に立たしむる事を好まず、むしろ我が軍の右翼をアーヘンとリンブルグ州の南端の間の狭小なる地区を強行通過する技術上の大困難を甘受する事とした。この行動を可能ならしむるためにはリュッチヒ(リエージュ)をなるべく速やかに領有せねばならない。そこでこの要塞を奇襲により攻略する計画が成立した」と記している。
オランダの中立を侵犯しないとせば独軍の主力軍がマース左岸に進出するのにオランダ国境からナムール要塞の約七十キロを通過せねばならず、この間にフイの止阻堡とベルギーの難攻不落と称するリエージュの要塞がある。リエージュは欧州大戦で比較的簡単に(それもこの計画の責任者とも云うべきルーデンドルフが偶然この攻撃に参加した事が有力な原因である)陥落したため、世人は軽く考えているが、モルトケとしては国軍主力のマース左岸への進出に、今日我らの考え及ばぬ大煩悶をしたのを充分察してやらねばならぬ。
敵は既にアルザス・ロートリンゲンに対し攻撃を企図している事は大体諜報で正確だと信ぜられて来た。ところがロートリンゲンのザール鉱工業地帯のドイツ産業に対する価値は非常に高まっている。もちろん決戦戦争に徹し得れば、一時これを犠牲とするも忍ばねばならないとの断定をなし得るのであるが、持久戦争への予感のあったモルトケとしてはこれも忍びない。
そこでモルトケ大将は、敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、いわゆるニードの「袋《わな》」に敵を誘致して一撃を与え、主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。ある年の参謀旅行で、敵がロートリンゲンに突進して来るのに、作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、モルトケは「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と講評したとの事である。
[#底本216頁右上に地図あり]
しかし無力なモルトケが、断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。参謀本部の空気がそれを許すべくもない。また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。永年の伝統に捉われない自由さから、他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。モルトケを特に凡庸の人というのではない。ナポレオンの如く、ヒットラーの如く特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。
一九一四年八月十八日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋《わな》」にかかるかどうか。リエージュはその間に陥落する。集中は予定通り出来る。敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。
不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。時の勢いと見ねばならぬ。
モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。ルーデンドルフ一党からは一九一四年、特に一九一五年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、当時恐らく困難であったろうと判断せられる。
ファルケンハインの失脚に依りヒンデンブルク、ルーデンドルフの世の中となった。ドイツの軍事的成功は偉大なものがあったが、経済的困難の増加に伴い全般の形勢は逐次ドイツに不利となりつつあった。ドイツとしては軍事的成功を活用し、米国大統領の無併合、無賠償の主義を基礎として断固和平すべきであった。政略関係は総て和平を欲していたのにルーデンドルフは欧州大戦はクラウゼウィッツの「理念の戦争」であり連合国は同盟国を殲滅せざれば止まないのだから、この戦争に於ける統帥は絶対に政治の掣肘を受くべきにあらずとして政戦略の不一致を増大し、「こうなった以上は最後まで」と頑張って遂にあの惨敗となったのである。ルーデンドルフ一党はデルブリュックの言う如く戦争の本質に対する明確な見解を持たなかったのである。即ちナポレオン以後は決戦戦争が戦争の唯一のものであると断定して、彼らが既に持久戦争を行ないつつある事を悟り得なかったのである。
[#底本218頁右上に地図あり]
しかしあのドイツの惨敗、あの惨忍極まるベルサイユ条約の強制が、今日ナチス・ドイツの生まれる原動力をなした事を思えば生半可の平和より彼らのいわゆる「英雄的闘争」に徹底した事が正しかったとも云えるのである。天意はなかなか人智をもっては測り難いものである。
ルーデンドルフは潜水艇戦術その他彼の諸計画は皆殲滅戦略に基づくものだと主張している。殲滅戦略、消耗戦略問題でデルブリュック教授と頻りに論争したのであるが、特にルーデンドルフは両戦略の定義につき曖昧である。政治の干渉を排して無制限の潜水艇戦を強行したから殲滅戦略だと言うらしいが、我らの考えならば潜水艦戦は厳格な意味に於て殲滅戦略とは言い難い。
[#底本219頁左上に地図あり]
露国の崩壊によって一九一八年西方に大攻勢を試みたルーデンドルフはこれを殲滅戦略の断行と疾呼する。その軍事行為の一節を殲滅戦略と云い得るにせよ、ルーデンドルフにはあの戦略を最後まで徹底して実行し、大陸の敵主力を攻撃し、少なくも仏国に決戦戦争を強制せんとする決意ではなかったのである。即ち、持久戦争中の一節として殲滅戦略を行なったに過ぎない。フリードリヒ大王が持久戦争の末期に困難を打開せんとして断行したトルゴウ会戦と類を同じゅうする。
ルーデンドルフが一九一八年の三月攻勢の攻勢方面につき、クール大将の提案であるフランデルン攻勢とサンカンタン攻勢を比較するに当り、戦略上から云えば前者を有利と認めている。しかるにサンカンタン案をとったのは専ら戦術上の要求に依ると称している。
真に仏国に決戦を強いんとするならばサンカンタン附近を突破し、英仏軍を中断して運動戦に導き、敵主力を破る事が戦略上最も有利とする事は云うまでもない。
しかるにルーデンドルフは当時の独軍は既にかくの如き運動性を欠くと判断し、英軍を撃破して英仏海峡沿岸を占領するのが敵の抵抗を断念せしむる公算が大きいから、フランデルン攻勢は戦略上有利と主張したのである。ルーデンドルフは現実に決戦戦争は行なえぬものと考えていたのである。
三月攻勢の目標は英軍を撃破して英仏海峡に突進するにあった。それで仏軍に対しては攻勢の進展に伴いソンムの線を確保して左側を完全にする考えであった。しかるに攻勢初期は予期以上に好結果を得たので、ルーデンドルフは何時の間にやら最初の目標を変えてソンム南岸に兵を進め、更に大規模な作戦に転じようとしたのである。しかしながらこの攻勢は遂に頓挫してしまった。彼は後に、攻勢頓挫につき「運動戦に到達することが出来なかった」と云うておる。結局彼は英仏海峡にも達し得ず、大規模の運動戦にも転じ得ず、かえって新しき占領地区の左翼方面に不安を来たしたのである。
再度言うが、ドイツ軍事界の戦争の性質に関する見解の固定が、開戦前に予期したと全く異なった戦争状態になってもなおそれらを悟り得なかった事が、一九一八年攻勢の指導にまで重大な影響を与えたのである。
かくてドイツは統帥部の「こうなった以上は徹底的に」と云う主張に引きずられ、軍部も実は自信を失い政治はもちろん信念はなかったに拘らず、遂に行く所まで行ってベルサイユの屈辱となったのである。
万人の予期に反して四カ年半の持久戦争となったその第一原因は兵器の進歩である。機関銃の威力は甚だ大きく、特に防禦に有利である。堅固に陣地を占め、決意して防禦する敵を突破する事は至難である。これに加うるに兵力の増大が遂に戦線は海から海におよび迂回を不可能にした。突破も出来なければ迂回も不可能で、遂に持久戦争になったのである。
これはフランス革命で持久戦争から決戦戦争になったのとは状態を異にしている。即ちフリードリヒ大王の使った兵器も、ナポレオンの使用したものもほとんど同一であったのであるが、社会革命が軍隊の本質を変化し、在来の消耗戦略を清算し得た事が決戦戦争への変転を来たしたのであった。
第九節 第二次欧州大戦
持久戦争は勢力ほぼ相伯仲する時に行なわれるのである。第二次欧州大戦でドイツのいわゆる電撃作戦が、ポーランドやノルウェーの弱小国に対して迅速に決戦戦争を強行し得た事はもちろん驚くに足らない。英仏軍と独軍はマジノ、ジーグフリードの陣地線の突破はお互にほとんど不可能で、結局持久戦争になるものと常識的に信ぜられていた。
しかるに一九四〇年五月十日、独軍が西方に攻勢を開始すると疾風迅雷、僅かに七週間で強敵を屈伏せしめて、世界戦史上未曽有の大戦果を挙げ、仏国に対しても見事な決戦戦争を強行し得たのである。
五月十日攻勢を開始すると、先ず和(オランダ)、白(ベルギー)、仏三国の主要飛行場を空襲して大体一両日の中に制空権を得て、主として飛行機と機械化兵団の巧妙な協同作戦に依って神速果敢なる作戦が行なわれた。殊に民族的にも最も近いオランダには内部工作が巧みに行なわれていたらしく、空輸部隊の大胆な使用と相俟って五日間にこれを屈伏せしめる事が出来た。
ベルギー方面に侵入した独軍また破竹の勢いでマース川の大障害を突破して西進、特にアルデンヌ地方に前進した部隊は仏軍の意表に出でて五月十日既にセダン附近に於てマースを渡河し、マジノの延長線を突破したのである。
[#底本223頁上に地図あり]
シュリーフェン以来独軍の主力は右翼にあるものと定まっていたのに、今日はアルデンヌの錯雑地を経て一挙北部フランスに突入した。
奇襲的効果は甚大であった。セダンの破壊口からドイツ軍は有力な機械化兵団を先頭として突入し、一九一八年三月攻勢にルーデンドルフが考えたようにエーヌ、オアーズ、ソンム等の河や運河を利用して左側背の掩護を確実にしながら主力は一路西進、たちまちアブヴィルに達した。同地では仏軍の一部が悠悠錬兵場で訓練中であったとの事である。いかに独軍の進撃が神速であったかを物語っている。
かくてフランデルとアルトアにあった英白軍および仏の有力部隊は瞬く間に包囲せられ、五月二十二日頃にはその運命が決定した。独軍の包囲圏は刻々縮小せられ、形勢非なるを見てとった英軍は匆々《そうそう》本国への退却を開始した。この情況を見たベルギー皇帝は五月二十八日無条件で独軍に降伏した。
形勢は更に急転、英仏
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