ります。ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である一九〇五年十二月案には、アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、パリを大兵力をもって攻囲した上、更に七軍団(十四師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました(二五頁の図参照)。ところが一九〇六年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、その右翼はパリにも達せず、敵のパリ方面よりする反撃に遇《あ》うともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、甚だ不徹底なものと言わねはなりませ
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