的に見てフリードリヒ大王のロイテン、ロスバハには及ばない。然しナポレオンの勝利はほとんど常に戦争の運命に決定的作用を及ぼしたのである。
 モルトケ元帥は幕僚長で将帥ではない。殊にモルトケ時代の普国の戦争には皆卓越せる戦争準備によって敵国を撃破した。当時の会戦は大体第一線兵団を戦場に向う前進に部署するだけで、実行は第一線司令官に委ね、フリードリヒ大王やナポレオンの会戦のように強烈なる最高統帥の指揮を見なかった。
 兵器特に撃針銃の採用進歩は散兵の威力を増加して逐次戦闘正面を拡大して再び横広い隊形となった結果、自然会戦指揮は再び第一線決戦主義に傾いて来たが、シュリーフェン全盛時代までは「緒戦、戦闘実行、決戦」と会戦時期を三区分していたように、やはりナポレオン時代の第二線決戦の風も当時残っていたのである。
 シュリーフェン時代となると戦闘正面はますます拡大せられ、敵の側背を狙う迂回包囲はますます大胆となるべく唱導鼓吹せられ、第一線決戦主義に徹底して来た。会戦の方針は、既に集中決定の時に確立せられ、敵の側背に向い決戦を強行断行するのである。シュリーフェンの「カンネ」の一節に「翼側に於ける勝利を希うためには最後の予備を中央後でなく、最外翼に保持せねばならぬ。将帥の慧眼が広茫数十里に至る波瀾重畳の戦場に於て決戦地点を看破した後、初めて予備隊を移動するが如き事は不可能である。予備隊は既に会戦のための前進に当り、脚下停車場より、更に適切に云えば鉄道輸送の時から該方面に指向せられねばならぬ」と言っており、この大軍の会戦への前進はモルトケ元帥の如く単に方針のみを与えて第一線司令官の自由に委せるのではなく、全軍あたかも大隊教練のように「眼を右、触接左」に前進すべき事を要求している。丁度フリードリヒ大王の横隊戦術を大規模にした観がある。
 第一次欧州大戦初期は前に述べたようにフランス軍の会戦方針はやや第二線決戦的色彩を帯びていたが(勿論徹底せるものではない)、独軍は第一線決戦主義が極めて明確である。シュリーフェン案の如く徹底したものではなかったが、兎に角独軍のベルギー侵入よりマルヌまでの作戦はあたかもロイテン会戦を大々的に拡大した観を呈している。
 ところが持久戦争に陥り戦線が逐次縦深を増して来るに従い、会戦指揮の方針は自然第二線決戦主義となって来た。局部的戦闘では奇襲に依り第一線決戦的に
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