始めておったのである。この事は人間社会の事象を考察するに非常な示唆を与えるものと信ずる。特に注意を要するは、作戦計画の当事者が最も早くこれを感知した事である。言論界、殊に軍事界に於て経済的動員準備の必要が唱道せらるるに至ったのは遅れて一九一二年頃からである。しかしそれも固より大勢を動かすに至らず、財政的準備以外は何ら見るべきものが無かった。
「一九一四年七月初旬、内務次官フォン・デルブリュックは当時ロッテルダムに多量の穀物が在ったため、急遽ドイツ帝国穀物貯蓄倉庫を創設せんとした。しかしながらこれには五百万マルクを必要とし、大蔵大臣はこれを支出する事を肯《がえ》んじなかった。大蔵大臣はデルブリュックに書簡をもってこの由を申し送った。曰《いわ》く『吾人は決して戦争に至らしめないであろう。若し余が貴下に五百万マルクの支出を承諾するならば、穀物を国庫の損失補償の下に売却すると同じである。これは既に困難なる一九一五年度の予算編成を更に一層困難ならしむるであろう』と。
 結局資金は支出されず、予算編成は滞りなく済み、七十五万人のドイツ人は飢餓のため死亡した!」(アントン・チシュカ著『発明家は封鎖を破る』三四―五頁)
 モルトケ大将はモルトケ元帥の甥で永くその副官を勤め、陸軍大学出身でなく参謀本部の勤務も甚だ短かった。参謀総長になったのはカイゼルとの個人関係が主であったらしい。シュリーフェンの弟子ではない。これがかえってモルトケをして時代性を参謀本部の人々よりも敏感に感受せしめたらしい。
 シュリーフェンの計画はベルギーだけでなくオランダの中立をも躊躇する事なく蹂躙するものであった。私がドイツ留学中少し欧州戦史の研究を志し、北野中将(当時大尉)と共同して戦史課のオットー中佐の講義を聴くことにした。同中佐は最初陸大で学生にでも講義する要領で問題等を出して来たが、つまらないのでこちらから研究問題を出して相当に苦しめてやった。ある日シュリーフェンはオランダの中立を犯す決心であったろうと問うたところ、何故かと謂うから色々理由を述べ、特に戦史課長フェルスター中佐の著書等にシュリーフェンがアントワープ、ナムールの隘路を頻りに苦慮するが、それより前にリェージュ、ナムールの大隘路があるではないか、それを問題にしないのはオランダの中立侵犯の証拠であると詰《なじ》り、フェルスター課長に聞いて来るよう
前へ 次へ
全160ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石原 莞爾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング