て来たが、行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、八月十二日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、一角を奪取したけれども遂に大敗し、さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、大王に英気を回復せしめた。
九月四日ドレスデンは陥落した。露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが大王の巧妙なる作戦に依り遂に十月下旬遠く東方に退却した。大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、カール十二世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。
病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、十一月二十一日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。
ホ、一七六〇年
大王の形勢ますます不良、クラウゼウィッツの言う如く敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。
ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は八月初め断固東進、八月十日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。ダウンは大王と前後して東進、ラウドンを合して十万となり、三万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、十四日払暁突如ラウドンと衝突、適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。
リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。大王は一部をもって露軍を監視、主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、露軍と墺軍の一部は十月四日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。
露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。
トルゴウの会戦は一
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