ばフランス革命の軍事的意義、ナポレオンの偉大さが判らないのである。
[#底本175頁左上に図あり]

     第五節 フリードリヒ大王の戦争
 フリードリヒ大王が一七四〇年五月三十一日、父王の死に依り王位に就いた時は年二十九で、その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口二百五十万に過ぎなかった。当時墺(オーストリア)は千三百万、フランス二千万、英国は九百五十万の人口を有していたのである。
 大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口百三十万)の領有を企図したのである。シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。あたかも良し同年十月二十日ドイツ皇帝カール六世が死去したので、これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、大王は前後三回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は戦争研究者のため絶好の手本である。仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。
 1、第一シュレージエン戦争(一七四〇―四二年)
 大王は十二月十六日国境を越えてシュレージエンに侵入し、二、三要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、一月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。
 バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、墺国と交戦状態に在ったため、大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、一七四一年四月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、四月十日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。
[#底本177頁に地図あり]
 大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、墺軍は
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