る私の天職に従い、恐らく今日は屍を馬革に包み得ていたであろう。しかるに私は入学試験に合格した。これには友人たちも驚いて「石原は、いつ勉強したか、どうも不思議だ」とて、多分、他人の寝静まった後にでも勉強したものと思っていたらしい。余り大人気ないので私は、それに対し何も言ったことはなかったが、起床時刻には連隊に出ており、消灯ラッパを通常は将校集会所の入浴場で聞いていた私は、宿に帰れば疲れ切って軍服のまま寝込む日の方が多かったのである。あのころは記憶力も多少よかったらしいが、入学試験の通過はむしろ偶然であったろうと思う。しかしこれは連隊や会津の人々には大きな不思議であったらしい。
山形時代も兵の教育には最大の興味を感じていたのであるが、会津の数年間に於ける猛訓練、殊に銃剣術は今でも思い出の種である。この猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の念であり、心を悩ますものは、この一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信念感激をたたき込むかであった。私どもは幼年学校以来の教育によって、国体に対する信念は断じて動揺することはないと確信し、みずから安心しているものの、兵に、世人に、更に外国人にまで納得させる自信を得るまでは安心できないのである。一時は筧《かけい》博士の「古神道大義」という私にはむずかしい本を熱心に読んだことも記憶にあるが、遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正九年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の「前代未聞の大|闘諍《とうじょう》一|閻浮提《えんぶだい》に起るべし」は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。
戦闘法が幾何学的正確さを以て今日まで進歩して来たこと、即ち戦闘隊形が点から線に、更に面になったことは陸軍大学在学当時の着想であった。いな恐らくその前からであったらしい。大正三年夏の「偕行社記事別冊」として発表された恐らく曽田中将の執筆と考えられる「兵力節約案」は、面の戦術への世界的先駆思想であると信ずるが、私がこの案を見て至大の興味を感じたことは今日も記憶に明らかである。教育総監部に勤務した頃、当時わが陸軍では散兵戦術から今日の戦闘群の戦法に進むことに極めて消極的であったのであるが、私が自信を以て積極的意見を持っていたのは、この思想の結果であった。
私の最終戦争
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