光明を与えられしことの大なるを感知して、この方面の図書を少々読んだのであるが、語学力が不充分で、読書力に乏しい私は、あるいは半解に終ったかとも思われるが、ともかくデルブリュック教授の殲滅戦略、消耗戦略の大体を会得し得て盛んにこの言葉を使用し、陸軍大学に於ける私の欧州古戦史の講義には、戦争の二大性質としてこの名称を用いたのであった。
 ドイツに赴く途中、シンガポールに上陸の際、国柱会《こくちゅうかい》の人々から歓迎された席上に於て、私はシンガポールの戦略的重要性を強調し、英国はインドの不安を抑え、豪州防衛のために戦略的側面陣地価値ある同地を、近く要塞化すべきを断じたのであったが、この後、間もなく実現したので、当時列席した人から感慨深い挨拶状を受けたことがあった。
 ドイツ留学の二年間は、主として欧州大戦が殲滅戦略から消耗戦略に変転するところに興味を持って研究したのであるが、語学力の不充分と怠慢性のため充分に勉強したと言えず、誠にお恥ずかしい次第である。欧州大戦につき少しく研究するとともに、デルブリュックとドイツ参謀本部最初の論争戦であったフリードリヒ大王の研究を必要とし、且つかねての宿望であったナポレオンを研究し、大王の消耗戦略からナポレオンの殲滅戦略への変化は欧州大戦の変化とともに軍事上最も興味深い研究なるべしと信じ、両名将の研究に要する若干の図書を買い集めたのであった。
 明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第六十五連隊は、日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた連隊であった。この連隊は幹部を東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。明治四十二年末、少尉任官とともに山形の歩兵第三十二連隊から若松に転任した私は、私の一生中で最も愉快な年月を、大正四年の陸軍大学入校まで、この隊で過ごしたのである。いな、陸軍大学卒業までも、休みの日に第四中隊の下士室を根城として兵とともに過ごした日は、極めて幸福なものであった。
 私自身は陸大に受験する希望がなかったのであるが、余り私を好かぬ上官たちも、連隊創設以来一名も陸大に入学した者がないので、連隊の名誉のためとて、比較的に士官学枚卒業成績の良かった私を無理に受験させたのである。私の希望通り陸大に入校しなかったならば、私は自信ある部隊長として、真に一介の武人た
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