方へ飛んでいて、それを顧みる余裕がなかった。深山が荷造りの手伝いなどしてくれるのを、当然のことのように考えていた。今度帰って来ても、やはりそれを気づかずにいた。けれど深山が、自分にばかり調子を合わしていないことが少しずつ解って来た。
「笹村には僕も随分努めているつもりなんだ。今度の家だって、あの男が寂しいからいてやるんだ。」
 こんなことが、ちょいちょいここへ来て飯を食ったり、徹夜《よどおし》話に耽《ふけ》ったりして行く、ある男を通して、笹村の耳へも入った。笹村には甥の来たのが、ちょうど二人が別々になるのにいい機会のように考えられた。笹村には思っていることをあまり顔に出さないような深山の胸に横たわっている力強いあるものに打《ぶ》ッ突《つ》かったような気がしていた。笹村が時々ぷりぷりして、深山に衝《ぶ》ッ突《つ》かるようなことはめずらしくもなかった。
 深山は古い笹村の一閑張《いっかんば》りの机などを持って、別の家へ入って行った。そこへ、この家を周旋した笹村の友達のT氏も、駒込《こまごめ》の方の下宿から荷物を持ち込んで、共同生活をすることになった。そして、二人は飯を食いに、三度三度笹村の方へやって来た。
 甥が着いたその晩に、家主のK―やT―、深山も一緒に来て、多勢持ち寄ったものを出し合って、滅多汁《めったじる》のようなものを拵えた。
 台所には、すべてに無器用な婆さんを助《す》けに、その娘のお銀という若い女も来て、買物をしたり、お汁《つゆ》の加減を見たりした。
「私《わし》あ甘うて……。」と、可愛らしい顔を赧《あか》くして、甥が眉根《まゆね》を顰《しか》めた。
「笹村君は、これでもう何年になるいな。」と、健啖家《けんたんか》のT―は、肺病を患ってから、背骨の丸くなった背《せなか》を一層丸くして、とめどもなく椀《わん》を替えながら苦笑した。彼は肺のために大学を休んでから、もう幾年にもなった。その時は、ちょうどいろいろな調査書類などを鞄につめて、一、二年視学をしていた小笠原島《おがさわらじま》から帰ったばかりであった。
「作かね。」
 笹村もくすぐったいような笑い方をした。そして長いあいだの習慣になっている食後の胃の薬を、四畳半の机の抽斗《ひきだし》から持って来て、茶碗《ちゃわん》の湯で嚥《の》み下した。それが少し落ち着くと、曇ったような顔をして、後の窓際へ倚《よ》りかかって、パイレートを舌の痛くなるほど続けて吸った。
 衆《みんな》は食べ飽きて気懈《けだる》くなったような体を、窓の方へ持って行って、夕方の涼しい風に当った。
 やがてお銀が、そこらに散らかったものを引き取って行った。
 お銀が初めてここへ来たのは、ついこのごろであった。ある日の午後、どこかの帰りに、笹村が硝子《ガラス》製の菓子器やコップのようなものを買って、袂《たもと》へ入れて帰って来ると、茶の室《ま》の長火鉢のところに、素人《しろうと》とも茶屋女ともつかぬ若い女と、細面の痩《や》せ形《がた》の、どこか小僧気《こぞうけ》のとれぬ商人風の少《わか》い男とが、ならんでいた。揉上《もみあ》げの心持ち長い女の顔はぽきぽきしていた。銀杏返《いちょうがえ》しの頭髪《あたま》に、白い櫛《くし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、176−下−2]《さ》して、黒繻子《くろじゅす》の帯をしめていたが、笹村のそこへ突っ立った姿を見ると、笑顔《えがお》で少し前《すす》み出て叮寧に両手を支《つ》いた。
「……母がお世話さまになりまして。」

     四

 近所で表へ水を撒《ま》く時分に、二人は挨拶《あいさつ》をして帰って行った。
「ちょッといい女じゃないか。」
 笹村が四畳半の方で、その時まだ一緒にいた深山に話しかけると、深山は、「むむ。」と口のうちで言った。
「あの男は。」
「あれは情夫《いろ》さ。」深山はとぼけてそう言った。
「そうかね。」
 飯のとき笹村は笑いながら婆さんに、「お婆さん、いい子供がありますね。」と言うと、婆さんは、「ええ。」と言って嬉《うれ》しそうににっこりした。
 それから娘だけ二、三度も来た。
「あれも縁づいておりましたったけれど、ちっと都合があってそこを逃げて来とりますもんで、閑《ひま》だから、つい……。」
 婆さんは娘が帰って行くと、そう言っていた。
 娘は時々バケツを提げて、母親に水など汲《く》んで来てやった。台所をきちんと片づけて行くこともあった。娘が拵えてくれた小鯵《こあじ》の煮びたしは誰の口にもうまかった。
「これアうまい。お婆さんよりよほど手際がいい。」笹村は台所の方へ言いかけた。
「これは焼いて煮たんだね。」
「私は何だか一向不調法ですが……娘の方はいくらか優《まし》でござんす。」
 母親はそこへ来て愛想笑
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