端を歩いているお銀の姿を、笹村は時々振り顧ってみた。

     七十九

「お湯にお入んなすって。」といって毎日毎日刻限になると、栗山から来ているという、行儀のよい小娘が、部屋の入口へ来てにっこりしながら声かけるころには、笹村の頭は何を考えるともなしに萎《な》え疲れていた。沈黙の苦痛に気が変になりそうなこともあったが、やはり部屋を動くのが厭であった。
 もう十日の余もいて、町の人の生活状態も解っていたし、宿の人たちのことも按摩《あんま》などの口から時々に聴き取って、ほぼ明らかになっていた。町の宿屋という宿屋は、日光山へ登る旅客がここを通らなくなってからは、大抵|達磨宿《だるまやど》のようなものになってしまった。町の裏に繁っていた森も年々に伐《か》り尽されて、痩せ土には米も熟《みの》らないのであった。唯一の得意先であった足尾の方へ荷物を運ぶ馬も今は何ほども立たなかった。そのなかでその宿だけは格を崩さずにいた。裏には顕官の来て泊る新築の一構えなどもあった。魚河岸《うおがし》から集金に来ている一人の親方は、そこの広間で毎日土地の芸妓《げいしゃ》や鼓笛《つづみふえ》の師匠などを集めて騒いでいた。
 湯殿の上り場には、掘りぬきの水が不断に流れていた。山から取って来てその水に浸《つ》けてある淡色《うすいろ》の夏雪草などを眺めながら、笹村は筋肉のふやけきったような体を湯に浸していた。湯気で曇った硝子窓には、庭の立ち木の影が淡碧《うすあお》く映っていた。
 日暮れ方になると、笹村は町へ出て見た。そこここの宿屋の薄暗い二階からは、方々から入り込んでいる繭買《まゆか》いの姿などが見られた。裏通りへ入ると、黄色い柿の花の散っている門構えの家などが見えたり、ごみごみした飲食店や、御神燈の出た芸者屋が立ち並んでいたりした。
 去年の秋の氾濫《はんらん》の迹《あと》の恐ろしい大谷川の縁へ笹村は時々出かけて行った。石のごろごろした白い河原の上流には、威嚇《いかく》するような荒い山の姿が、夕暮れの空に重なりあって見えた。凄《すさま》じい水勢に潰《くず》された迹の堤の縁《へり》には、後から後からと小屋を立てて住んでいる者もあった。笹村は石を伝って、広い河原をどこまでも溯《さかのぼ》って見たり、岩に腰かけて恐ろしい静寂の底に吸い込まれて行きそうな心臓の響きに、耳を澄ましたりした。
 やがて高い向う河岸の森蔭や、下流の砂洲に繁った松原のなかに、火影がちらちらしはじめた。電《いなずま》が時々白い水のうえを走った。笹村は長くそこに留まっていられなかった。
 町をまた一巡《ひとまわ》りして宿へ帰って来た笹村は、この十日ばかり何を見つめるともなしにそこに坐っていた自分の姿を、ふと目に浮べた。机の上には来た時のままの紙や本が散らばっていて、澱《おど》んだような電気の明りに、夏虫が羽音を立てていた。
 その晩笹村は下の炉傍《ろばた》へ来て、酒をつけてもらったりした。炉傍には、時々話し相手にする町の大きな精米場の持ち主も来て坐っていた。
 翌朝九時ごろに、階下《した》へ顔を洗いに行った時、笹村はふと料理場から顔を出す女の姿を見た。薄い鬢《びん》を引っ詰めたその顔は、昨夜《ゆうべ》見た時よりも荒れて蒼白かった。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、288−上−8]《こめかみ》のところに貼《は》った膏薬《こうやく》も気味が悪かった。
「旦那《だんな》、ほんとに日光へ連れて行って下さいね。」
 女の口には金歯が光った。声もしゃ[#「しゃ」に傍点]がれたようであった。女は昨夜の挨拶にそこへ来ているのであった。
 午後に笹村は、長く壁にかかっていた洋服を着込んで、ふいとステーションへ独りで出向いて行った。そしてちょうど西那須《にしなす》行きの汽車に間に合った。



底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
   1967(昭和42)年9月5日初版発行
   1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2003年9月21日修正
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