わら》を買って被《かぶ》せたり、足袋に麻裏草履などもはかせた。
「どうも贅沢《ぜいたく》を言って困った。」
 笹村は帰って来ると、台所を片着けているお銀に話しかけた。
「安いもので押し着けようとしたって、なかなか承知しない。」
 甥のいなくなった家を見廻すと、そこらがせいせいするほど綺麗に拭《ふ》き掃除がされてあった。裏の物干しには、笹村が押入れに束《つく》ねておいた夏襯衣《なつシャツ》や半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83、179−下−15]《ハンケチ》、寝衣《ねまき》などが、片端から洗われて、風のない静かな朝の日光に曝《さら》されていた。
「どうもそう何でも彼《かん》でも引っ張り出されちゃ困るね。」
 笹村は水口で渇いた口を嗽《すす》ぎながら言った。
「そうですか。」
 女は鬢《びん》の紊《ほつ》れ毛を掻《か》き揚げながら振り顧った。
「でも私、疳性《かんしょう》ですから。」

     六

 笹村は机の前に飽きると、莨《たばこ》を袂へ入れて、深山の方へよく話しに行った。T―は前の方の四畳半に、旅行持ちの敷物を敷いて、そこに寝転《ねころ》んでいた。T―は長いあいだ無駄に月謝を納めている大学の方をいよいよ罷《や》めて、好きな絵の研究を公然やり出そうかというようなことを、毎日考え込んでいた。父兄の財産によらずに、どうかして洋行するだけの金の儲《もう》けようはないものかなどと思い続けていた。島へ行ってから聖書などに親しみ、政治や戦争などを厭がるようになっていた。思想の毛色も以前より大分変っていた。
「僕は今小説を一つ書きかけているところなんだ。」と、鼻の高い、骨張った顔の相を崩しながら横に半身を起して、くうくう笑った。
 机のうえには、半紙に何やら書きかけたものがあった。T―の頭には、小笠原島で見た漁夫や、漂流の西班牙《スペイン》人や、多勢の雑種《あいのこ》について、小説にして見たいと思うようなものがたくさんあった。笹村のガラクタの中から拾い出して行った「海の労働者」の古本などが側にあった。
 二人はこのごろT―のところへ届いた枝ごとのバナナを手断《ちぎ》りながら、いろいろの話に耽った。薄暗い六畳から台所の横の二畳の方を透《すか》してみると、そこに深山が莨の煙のなかに、これも原稿紙に向っている。傍にパインナップルの罐《かん》や、びしょびしょ茶の零《こぼ》れている新聞紙などが散らかっていた。そして蟻《あり》が気味わるくそこらまで這《は》い上っていた。
「あの女が島田などに結うのは目障《めざわ》りだね。」笹村はこれまでよく深山に女の苦情を言った。夜家を明けて、女が朝|夙《はや》く木戸をこじ明けて入って来ることも、笹村の気にくわなかった。お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更《よふか》しをすることがあった。
「近所へ体裁が悪いから、朝木戸をこじあけて入って来るなどはいけないよ。」
 笹村は一度女にもじかに言い聞かしたが、負けず嫌いのお銀はあまりいい返辞をしなかった。
「肴屋などは、あれを細君が来たのだと思っていやがる。女がそんな態度をするだろうか。」
「やはり若い女なぞはいけないんだ。」深山は女のことについて、あまり口を利かなかった。
 T―は傍で、くすりくすり笑っていた。
 笹村が裏から帰って来ると、お銀は二畳の茶の間で、不乱次《ふしだら》な姿で、べッたり畳に粘り着いて眠っていた。障子には三時ごろの明るい日が差して、お銀の顔は上気しているように見えた。と、跫音《あしおと》に目がさめて、にっこりともしないで、起きあがって足を崩したまま坐った。それを、ちらりと見た笹村の目には、世に棄《す》て腐れている女のようにも思えた。笹村は黙ってその側を通って行った。
 二、三日降り続いた雨があがると、蚊が一時にむれて来た。それでなくともお銀は暑くて眠られないような晩が多かった。そして蚊帳《かや》が一張《ひとはり》しかなかったので、夜おそくまで、蝋燭《ろうそく》の火で壁や襖《ふすま》の蚊を焼き焼きしていた。そんなことをして、夜を明かすこともあった。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張《はり》もあるんですがね。」
 お銀は肉づいた足にべたつくような蚊を、平手で敲《たた》きながら、寝衣姿《ねまきすがた》で蒲団のうえにいつまでも起き上っていた。
 翌日笹村は独り寝の小さい蚊帳を通りで買って、新聞紙に包んで抱えて帰った。そしてそれをお銀に渡した。
「こんな小さい蚊帳ですか。」お銀は拡げてみてげらげら笑い出した。そして鼠《ねずみ》の暴れる台所の方を避けて、それをわざと玄関の方へ釣《つ》った。土間から通しに障子を開けておくと、茶の間よりかそこの方が多少涼しくもあった。
「こんなに狭くちゃ、ほんとに寝苦しくて……。」大柄な浴衣を着たお銀は、手
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