は慎んでもらいたい。」
笹村はお銀が友人の手を打った時のことを口へ出して言った。
「あれがBさんだったからいいようなものの、ほかの人だったら、随分変に思うだろう。あんなことをしてお前ははずかしいとも思わんのか。」
「……ちッとも気がつきませんでしたよ。私そんなことをして。それは花を引いているんですから、そう硬くばかりもしていられませんから、調子に乗ってしたかも知れませんけれど……。」
お銀はそう言いながら、子供に乳房を含ませた。そんなことを気にする笹村の言い草がかえって不思議に思われた。
三十三
仕事は少しずつ捗取《はかど》って来た。進行するにつれて原文に昵《なず》んでも来たし、訂正の骨《こつ》も自然《ひとりで》に会得されて来た。作そのものにも興味が出て来た。それに長いあいだの問題が、とにかくひとまず解決を告げたので、いくらか頭も軽くなっていたから、息もつかずずんずん筆を着けて行くことが出来た。
二、三日手から放さなかった筆をおいて、笹村はふと想い出したように家の方へ行って見た。入って行くと、子供は産衣《うぶぎ》そのままの姿《なり》で、蚤《のみ》を避けるために、風通しのよい窓の側に取り出した一閑張りの広い机のうえに寝かされてあった。八月の半ばすぎで、暑さはまだ烈《はげ》しかった。子供の目の先には、くるくる風に廻っている風車などがあった。笹村はその顔を見ると、哀れなような気がした。
お銀は箪笥《たんす》のうえにおいてあった浴衣地を卸《おろ》して来て、笹村に示《み》せた。
「もう正一のお宮詣《みやまい》りですよ、着のみ着のままであまり可哀そうですから、私|昨夜《ゆうべ》こんなものを二枚分買って来ましたの。安いもんじゃありませんか、これでようやく七十五銭……。」と言って、お銀は淋しい笑い方をした。
笹村は窓の傍に腕まくりをしながら、脚を投げ出していた。母親は台所で行水の湯を沸かしていた。
「この子に初めて拵える着物が七十五銭なんて、私可哀そうなような気がして……。」と、お銀は涙含《なみだぐ》んでいた。
「一枚でたくさんじゃないか。それにこの柄というのはないな。」笹村は呟いた。
「そう言うけれど、ちょっといいじゃありませんか。子供にはこういうものがいいんですよ。それに有片《ありぎれ》だから、不足も言えませんわ。」
「医師《いしゃ》の話のところへ、くれてやればよかったんだ。」
「でもまアいいわ。いくら物がなくたって、他人の手に育つことを考えれば……。」
お銀はせめて銘仙《めいせん》かメリンスぐらいで拵えてやりたかったが、それを待っていると拵える時が来そうにも思えなかった。
「それに、お宮詣りに行かないとしても、祝ってもらったところへだけは配り物をしなければなりませんからね。先の煙草屋などでは、毎日それを聞いてるんですよ。ここはお品のわるいところですけれど、そう貧乏人はいませんからね、出来ることなら氏神さまへ連れて行ってやりたいんですがね。」
西日のさす台所で、丹念な母親は子供に行水をつかわせた。お銀も袂を捲《まく》りあげて、それを手伝った。やがてタオルで拭かれた子供の赭《あか》い体には、まだらに天花粉《てんかふん》がまぶされた。
「きれいな子ですよ。お腫物《でき》一つできない……。」と言って、お銀は餅々《もちもち》したその腿《もも》のあたりを撫でながら、ばさばさした襁褓《むつき》を配《あてが》ってやった。子供は吹き込む風に、心持よさそうに手足をばちゃばちゃさしていた。
夕方飯がすんでから、笹村はM先生のもとを訪ねた。先生は涼しい階下《した》の離房《はなれ》の方へ床をのべて臥《ね》ていた。そのころ先生の腫物《しゅもつ》は大分痛みだしていた。面変《おもかわ》りしたような顔にも苦悶《くもん》の迹《あと》が見えて、話しているうちに、時々意識がぼんやりして来るようなことがあった。起き直るのも大儀そうであった。
笹村は下宿の不自由で、仕事をするに都合の悪いこと、そこを引き払いたいということなどを話して、それとなく金を要求した。
「なにか用だったか。」
先生はまるで見当違いの挨拶をした。口の利き方もいつものような明晰《めいせき》を欠いていた。病勢のおそろしく増進して来た先生の内部には、生きようとする苦しい努力、はかない悶《もだ》えがあった。日ごとに反抗の力の弱って行く先生は、笹村の苦しい事情に耳を傾けるどころではなかった。
「己もまだ先方から受け取らんのだから……。」と先生はしぶしぶ傍にあった鞄から、札を幾枚か取り出して笹村に渡した。そんな鞄を控えているということは、先生のこれまでには見られない図であった。
笹村は疚《やま》しいような気がした。原稿の出来るのと、先生の死と――いずれが先になるか、それは笹村にも解っ
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