岸の森蔭や、下流の砂洲に繁った松原のなかに、火影がちらちらしはじめた。電《いなずま》が時々白い水のうえを走った。笹村は長くそこに留まっていられなかった。
町をまた一巡《ひとまわ》りして宿へ帰って来た笹村は、この十日ばかり何を見つめるともなしにそこに坐っていた自分の姿を、ふと目に浮べた。机の上には来た時のままの紙や本が散らばっていて、澱《おど》んだような電気の明りに、夏虫が羽音を立てていた。
その晩笹村は下の炉傍《ろばた》へ来て、酒をつけてもらったりした。炉傍には、時々話し相手にする町の大きな精米場の持ち主も来て坐っていた。
翌朝九時ごろに、階下《した》へ顔を洗いに行った時、笹村はふと料理場から顔を出す女の姿を見た。薄い鬢《びん》を引っ詰めたその顔は、昨夜《ゆうべ》見た時よりも荒れて蒼白かった。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、288−上−8]《こめかみ》のところに貼《は》った膏薬《こうやく》も気味が悪かった。
「旦那《だんな》、ほんとに日光へ連れて行って下さいね。」
女の口には金歯が光った。声もしゃ[#「しゃ」に傍点]がれたようであった。女は昨夜の挨拶にそこへ来ているのであった。
午後に笹村は、長く壁にかかっていた洋服を着込んで、ふいとステーションへ独りで出向いて行った。そしてちょうど西那須《にしなす》行きの汽車に間に合った。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2003年9月21日修正
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