ぎ出すくらいは、お銀にとってそんなむずかしいことでもなかった。そんな時のお銀の調子は、自分を恥じている笹村の心にとげとげしく触った。
「そんなものに関係なぞして、あなたは世間のいい笑いものになっていることを知らないんですか。深山さんでも誰でも、皆なそう言ってますよ。」
お銀はムキになって、その女のことを口汚く罵《ののし》った。目の色も変っていた。
二日ばかり、外をぶらついて帰って来た笹村は、お銀の神経をそんなに興奮させる何物もないのがおかしかったが、相手の心持に理解のないお銀の荒々しい物の言いぶりや仕草には、笑って済まされないようなことがあった。
何事も投《ほう》り出して、ペンと紙だけポケットへ入れて、ある日の午後不意に笹村が家を出た時、お銀は何にも知らずにいた。それまで二人は幾度となくはしたなく言い争った。巣をかえてから、笹村の足の遠のいていた女のことは、もはやお銀の頭に何の煩いをも残さなかったが、そんなことでしばらく紛らされていた笹村の頭は、前よりも一層落着きを失っていた。そして年々煩わしさの増して行く生活につれていろいろに分裂している自分の心持を支えきれないような気がしていた。
その日は雨がじめじめ降っていたが、汽車から眺める平野の青葉の影は、しばらく家を離れたことのない笹村の目に、すがすがしく映った。汽車は次第に東京の近郊から離れて、広い退屈な関東の野を走った。笹村の頭には今まで渦のなかにいるように思えた自分の家、家族の団欒《だんらん》、それらの影がだんだん薄くなって来た。そして今行こうとしている町の静けさと自由さが、沈澱《ちんでん》したような頭に少しずつはっきりして来た。どこへ旅しても、目は始終人や女の影を追うていた七、八年前の心持が、今と比べて考えられた。西の方へ長い漂浪《さすらい》の旅をした時は、ことにそうであった。家族と一緒に歩いている旅客を、船や汽車で見た時は、一層その念が強かった。その時の笹村の心には、どこへ行っても自然は気をいらいらさせる退屈な田舎の松並木に過ぎなかった。
爽《さわや》かな初夏の雨は、汽車の窓にも軽く灑《そそ》いで来た。窓の前には、雨を十分吸い込んだ黒土の畑に、青い野菜の柔かい葉や茎を伸ばしているのが見えたり、色の鮮かな木立ち際に黝《くろず》んだ藁屋《わらや》が見えたりした。汽車のなかには、日光へ行くらしい西洋人の日に
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