ねのける子供を番していた。蚊帳の外には、まだ蚊の啼き声がしていた。

     七十三

「何はおいても、お義理だけは早くしておきたいと思いますがね……。」と言うお銀に促されて、床揚げの配り物をすると一緒に、お冬へ返礼に芝居をおごったり、心配してくれた人たちを家へ呼んだりするころには、子供はまだ退院当時の状態を続けていたが、秋になってからは肥立ちも速《すみや》かであった。そしてその冬は、年が明けてから、ある日出先のお銀の弟の家で、急にジフテリアに罹《かか》って、危いところを注射で取り留めたほかは何事もなかった。
「この子は育てるのに骨が折れますよ。十一になるまで、摩利支天《まりしてん》さまのお弟子にしておくといいんだそうですよ。」
 お銀はお冬の知合いのある伺いやの爺さんから、そんなことを聞いて来たりした。
 しかしうっちゃっておいても育って行くように見えた、次の女の子が、いつもころころ独りで遊んでばかりいないことが、少しずつ解って来た。この子供は、不断は何のこともない大人の弄物《おもちゃ》であったが、どうかして意地をやかせると、襖《ふすま》にへばりついていて、一時間の余も片意地らしい声を立てて、心から泣きつづけることがあった。
「いやな子だな。豚の嘴《くちばし》のような鼻をして……此奴《こいつ》は意地が悪くなるよ。」
 笹村は小さい自我の発芽に触るような気がした。
「巳年《みどし》だから、私に似て執念ぶかいかも知れませんね。」
 そう言って子供を抱き締めているお銀は、不思議にこの子の顔の見直せるようになって来るのに、一層心を惹《ひ》かれていた。
「あなたは坊だけが可愛いようですね。私はどちらがどうということはありませんよ。」
 時々そんなことを口にする母親の情がだんだん大きい方の子供に冷《さ》めて行くのが笹村によく解った。
「そうさ、体質から気質まで、正一のことは己には一番よく解る。」
 そしてその交感の鋭いのが、笹村にとって脱れがたい苦痛の一つであった。
 その冬笹村のふと冒された風邪《かぜ》が、長く気管支に残った。熱がさめてからも、まだ咽喉《のど》にこびりついているような痰《たん》が取れなかった。時々|悪寒《おかん》もした。笹村は長いあいだ四畳半に閉じ籠って寝ていた。そして障子の隙間から来る風すらが、薄い皮膚に鋭く当った。
「とうとうこじらしてしまった。」笹村
前へ 次へ
全124ページ中114ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング