新聞紙などが散らかっていた。そして蟻《あり》が気味わるくそこらまで這《は》い上っていた。
「あの女が島田などに結うのは目障《めざわ》りだね。」笹村はこれまでよく深山に女の苦情を言った。夜家を明けて、女が朝|夙《はや》く木戸をこじ明けて入って来ることも、笹村の気にくわなかった。お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更《よふか》しをすることがあった。
「近所へ体裁が悪いから、朝木戸をこじあけて入って来るなどはいけないよ。」
笹村は一度女にもじかに言い聞かしたが、負けず嫌いのお銀はあまりいい返辞をしなかった。
「肴屋などは、あれを細君が来たのだと思っていやがる。女がそんな態度をするだろうか。」
「やはり若い女なぞはいけないんだ。」深山は女のことについて、あまり口を利かなかった。
T―は傍で、くすりくすり笑っていた。
笹村が裏から帰って来ると、お銀は二畳の茶の間で、不乱次《ふしだら》な姿で、べッたり畳に粘り着いて眠っていた。障子には三時ごろの明るい日が差して、お銀の顔は上気しているように見えた。と、跫音《あしおと》に目がさめて、にっこりともしないで、起きあがって足を崩したまま坐った。それを、ちらりと見た笹村の目には、世に棄《す》て腐れている女のようにも思えた。笹村は黙ってその側を通って行った。
二、三日降り続いた雨があがると、蚊が一時にむれて来た。それでなくともお銀は暑くて眠られないような晩が多かった。そして蚊帳《かや》が一張《ひとはり》しかなかったので、夜おそくまで、蝋燭《ろうそく》の火で壁や襖《ふすま》の蚊を焼き焼きしていた。そんなことをして、夜を明かすこともあった。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張《はり》もあるんですがね。」
お銀は肉づいた足にべたつくような蚊を、平手で敲《たた》きながら、寝衣姿《ねまきすがた》で蒲団のうえにいつまでも起き上っていた。
翌日笹村は独り寝の小さい蚊帳を通りで買って、新聞紙に包んで抱えて帰った。そしてそれをお銀に渡した。
「こんな小さい蚊帳ですか。」お銀は拡げてみてげらげら笑い出した。そして鼠《ねずみ》の暴れる台所の方を避けて、それをわざと玄関の方へ釣《つ》った。土間から通しに障子を開けておくと、茶の間よりかそこの方が多少涼しくもあった。
「こんなに狭くちゃ、ほんとに寝苦しくて……。」大柄な浴衣を着たお銀は、手
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