り解らなくなってしまうんですよ。……それがやはり教育がないせいなんですねえ。そのために、私あなたの前でどのくらい気が引けるか知れない。親たちを怨《うら》みますよ。」お銀は萎《しお》れたような声で言った。
 笹村は、女に対する自分の態度の謬《あやま》っていることが判るような気がした。お銀に柔順《すなお》な細君を強《し》いながら、やはり妾か何かを扱うような荒い心持が自分にないとも言えなかった。そして、そこにまたその日その日の刺戟と興味を充《み》たして行くのではないかとも思った。
「それでも学校へは行ったろう。」
 笹村はお銀の生立ちについて、また何かを嗅ぎ出そうとしているような目容《めつき》で言った。
「え、それは少しは行ったんです、湯島学校へ……。お弁当を振り振り、私あの辺を歩いてましたわ、先生の言うことなんかちっとも聞きゃしなかった私……。」お銀はごまかすように笑い出した。
「叔父さんがなぜ行《や》らなかったろう。」
「叔父ですか。どうしてですかね。景気のいい時分は、自分で遊んでばかりいたんでしょう。それにその時は、私ももう年を取っていたのですから学問なぞは、私の柄になかったんでしょう。」
「でも手紙くらいは書けるだろう。」
「いいえ。」
「少しやって御覧。僕が教えてやろう。」
「え教えて下さい。真実《ほんとう》に……。」と言ったが、笹村はついお銀の字を書くのを見たことがなかった。
 下宿へ帰ると、笹村はある雑誌から頼まれた戦争小説などに筆を染めていた。その雑誌には深山も関係していた。笹村は深山の心持で、自分の方へ出向いて来たその記者から、時々深山のことを洩れ聞いた。
 筆を執っている笹村は、時々自分の前途を悲観した。M先生の歿後《ぼつご》、思いがけなく自然《ひとりで》に地位の押し進められていることは、自分の才分に自信のない笹村にとって、むしろ不安を感じた。
「君は観戦記者として、軍艦に乗るって話だが、そうかね。」
 谷中の友人がある日、笹村の顔を見ると訊き出した。
「けれど、それは子供のない時のことだよ。危険がないと言ったって、何しろ実戦だからね。」
 友人はそう言って、笹村の意志を翻《ひるがえ》そうとした。
 そんな仕事の不似合いなことは、笹村にもよく解っていた。

     四十三

 夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかった
前へ 次へ
全124ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング