いる女中の所管《もち》と決まっていた。暑中休暇の来るまで笹村は落着き悪い二階の四畳半に閉じ籠っていたが、去年の夏いた牛込の宿よりは居心がよかった。
 気が塞《つま》って来ると、笹村はぶらぶら家の方へ行って見た。家には近所の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の縁日から買って来た忍《しのぶ》が檐《のき》に釣られ、子供の悦ぶ金魚鉢などがおかれてあった。お銀は障子を伝い歩行《あるき》している子供の様子に目を配りながら、晩に笹村の食べるようなものを考えなどしていたが、笹村は余所《よそ》の家へでも来たように、柱に倚《よ》りかかって莨《たばこ》を喫《ふか》していた。笹村は下宿にいる人たちなどと、自分との距離の大分遠くなっていることを、しみじみ感じずにはいられなかった。下宿人のなかには、役所から退けて来ると、友達と一緒に夜おそくまで酒を飲んで、棋《ご》など打っている年老《としと》った紳士も二、三人紛れ込んでいたが、その心持は、周囲の学生連と大した相違はなさそうに見えた。それが笹村には羨《うらや》ましいようであった。
 夜になると、お銀は子供を抱え出して、坂のうえあたりまで一緒について来たが、子供に「ハイちゃい」をして下宿へ入って行く笹村は、下宿の空気とはどうしても融け合うことのできぬあるものが、胸にこだわっていた。もう試験を済ましてしまった学生連は、どこの部屋にも陽気な笑い声を立てていた。腕車《くるま》で飛び歩いている連中や、荷物を纏《まと》めている人たちもあった。笹村は台所の上になっている暑い自分の部屋を出て、バルコニーの方へ出ると、雨に晒《さら》された椅子に腰かけて、暗いなかで莨を喫《ふか》していた。そこへ二、三人の学生が出て来た。白粉の匂いのする女中たちも出て来た。
 笹村は齲歯《むしば》が痛み出して、その晩おそくまで眠られなかった。笹村は逆上《のぼ》せた頭脳《あたま》を冷《さ》まそうとして、男衆に戸を開けさせて外へ出た。外は雨がしぶしぶ降って、空は真闇《まっくら》であった。風も出ていた。その中を笹村は春日町《かすがちょう》の方へ降りて行った。
 暗い横町で、ばたばたと後を追っ駈けて来て体を検《しら》べる二人の角袖に出逢いなどしたが、足は自然《ひとりで》に家の方へ向いて行った。
「敵――の――生命《いのち》――と頼みたる……。」
 こんな軍歌の声に襲われながら、笹村は翌朝十時ごろよ
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