った。
「でも隠居は、やっぱり自分の子だと思っているらしい。私のやり方が、少してきぱきし過ぎるといった顔をしているからおかしい。」
浅井は重い目蓋《まぶた》をとじながら、懈《だる》そうに笑った。
「あなただって、女には随分|惚《ほ》れる方ですよ。」
お増はまだ離さずにいた莨を、浅井の口に押しつけなどした。
「ふふ。」と、浅井は今まで一緒にいた女の匂いが、まだ嗅《か》ぎしめられるような顔をして、溜息を洩らした。浅井のその女と、かなり深い関係を作っていることは、前からお増にも感づかれていたが、そんな時には、浅井の活動ぶりも、一層目ざましかった。収入も多かったし、自分のわがままも利いた。お増はその隙に、家をつめて物を拵えたり、金で除《の》けたりすることを怠らなかった。
「あまりやかましく言っちゃ駄目ですよ。遊ぶような時でなくちゃ、お金儲けは出来やしないの。」
小林の妾などと、女同士寄って、良人の風評《うわさ》などしあうとき、お増はいつもそう言っていた。
「浮気されると思や、腹も立つけれど、きりきり稼がしておくんだと思えば、何でもないじゃないの。私はこのごろそう思っていますの。」
お増はそうも言った。
翌朝《あした》目のさめたころには、縁側の板戸がもう開けられてあった。欄干《てすり》には、昨夜《ゆうべ》のお増の着物などがかけられて、薄い冬の日影が、大分たけていた。聞きなれた静子の唱歌の声も、階下から洩れて来た。
三十六
じきに、思いがけない縁談のことで、お今が一旦田舎へ呼び戻されることになった。
お今が、どうしても厭な田舎へ、ちょっとでも行って来なければならぬことに決まるまでに、二度も三度も、兄から手紙が来た。兄は郡役所などへ勤めて、田舎でも野原《のら》へなど出る必要もない身分であったが、かなりな製糸場などを持って、土地の物持ちの数に入っているある家の嫁に、お今をくれることに、肝《きも》を煎《い》ってくれる人のあるのを幸い、浅井に一切を依託してあった妹を急に自分の手に取り戻そうとするのであった。
婿にあたる男は、以前東京にもしばらく出ていたことがあった。妙に紛糾《こぐらか》った親類筋をたどってみると、その家とお今の家との、遠縁続きになっていることや、その製糸工場の有望なことや、男が評判の堅人《かたじん》だということなどが、兄の心を根柢《こんてい》から動かしたらしかった。
東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石《おもし》のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄《もや》か何ぞのような雰囲気《ふんいき》のなかに、お今の心を涵《ひた》しはじめるのであった。
「兄さん、私どうしたらいいんでしょう。」
お今に長いその手紙を出して見せられた時、兄の言い条の理解のないことが、浅井に腹立たしく思えた。
お今が、田舎へ呼び戻されることに、同意しているらしいお増が、ちょうど子供をつれて、行きつけの小林の妾宅《しょうたく》へ遊びに行っていた。
「どうといっても、私が喙《くち》を出す限りでもないが……。」
浅井もお今のために、安全な道を選ばないわけに行かなかった。
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」
浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。
「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
「そうなれば、またその談《はなし》にしなければならんがね。それは後の問題として、田舎へ引っ込むのがどうしても厭なら、一応私の方から、兄さんの方へ言って上げてもいい。私にしたところで、兄さんのしかたは少し勝手だと思う。」
しかし浅井の言ってやったことは、田舎では受け入られそうもなかった。とにかく、本人を一度よこして下さい。この手紙が着き次第すぐにも立たして下さい――そう言って兄の方から折り返し浅井に迫って来た。その手紙は、お増の前にも展《ひろ》げられた。夫婦はちょうどお今をつれて、暮の買物をしに、銀座の方へ出かけて行こうとしているところであった[#「あった」は底本では「あつた」]。新しい足袋《たび》をはいて、入れ替えたばかりの青い畳のうえをそっちこっちわさわさ歩いているお増の衣摺《きぬず》れの音が忙しそうに聞えたり、下駄を出すお今の様子が、浮き浮きして見えたりした。浅井は外出のそわそわした気分を撹《か》き乱されて、火鉢の傍に坐って、手紙を繰り返し眺めていた。
「やっぱり[#「やっぱり」は底本では「やつぱり」]返してくれと言うんでしょう。」
お増も、半襟を掻き合わせなどしながら、傍へ寄って来た。
「返した方がよござん
前へ
次へ
全42ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング