なお今に、しゃぶりついて泣きたいような気もしたのであったが、やはり自分を取り乱すことが出来なかった。
後悔と慚愧《ざんき》とに冷めていた二人の心が、また惹き着けられて行った。家でも寝るときの浅井の姿の、側にいないことが、時々夜更けに目のさめるお増の神経を、一時に苛立《いらだ》たせるのであった。淋しい有明けの電燈の影に、お増は惨酷な甘い幻想に、苦しい心を戦《わなな》かせながら、時のたつのを、じっと平気らしく待っていなければならないのであった。
「はやくお今を引き離そう。」
お増はじれじれと、そんなことを思い窮《つ》めるのであったが、その手段がやはり考えつかなかった。
「あの子に傷をつける日になれば、それはどんなことだって出来ますよ。」
お増は浅井に愚痴をこぼした。
「そうすれば、お前のためにも、どうせよいことはないよ。」
浅井は笑っていた。
五十
書生の時分に、学資などの補助を仰いでいた叔父の病気を見舞いに、浅井がしばらく田舎へ行っている留守の間を見て、お増が小林などと相談して、とうとうお今の姿を隠さしてしまったのは、その年ももう涼気《すずけ》の立ちはじめるころであった。
それまでにも、お増とお今との間には時々の紛紜《いざこざ》が絶えなかった。お今はどうかすると、小蔭で自分の荷物などを取り纏めて、腹立ちまぎれにそっと家を出て行こうとしたり、死ぬ決心でもするかと、お増が気味を悪がるくらい、二日三日も暗い顔をして、台所の隣の陰気らしい四畳半に閉じ籠ったりしていた。小林がお今のために持ち込んで来てくれた縁談なども、お今の反抗的な心を一層混乱せしめた。
「姉さんに御心配かけてすみません。私の体などはどうなってもようございますから、どうぞ皆さんのよろしいように……。」
お今はそんな棄て鉢のような口を利きながら、目に涙をにじませていた。
「とにかく、本人の希望どおり、独立さしてやるようなことにしてやったらいいじゃないか。引き受けた以上は、己にも責任がある。」
浅井のそういう反対説に、そんな話もやはり成り立たずにしまった。
浅井が田舎へ立ってから、お増は思いついて室をも一緒につれて、三人で浅草辺をぶらついたり、飯を食べたりして、お今を男に昵《なじ》ませようと試みた。
「今でもやっぱりあなたは、あの人のことを思っていて。」
お増は、お今のいないおりに、そっと室に訊いてみたが、この男に秘密を打ち明けないでいることが、空おそろしいようであった。
「なぜです。」
室はそう言いたげに、にやりと笑っていた。
「あの人にも困ったもんですよ。」
お増は口まで出そうにするその秘密を、やはり引っ込めておかないわけに行かなかった。
「一度あなたから、よく訊いてみて頂戴よ。」
そこへ小用に行ったお今が、入って来た。三人はある小奇麗な鳥料理の奥まった小室《こま》で、ビールやサイダなどを取りながら話していた。廊下の手欄《てすり》に垂れた簾《すだれ》の外には、綺麗に造られた庭の泉水に、涼しげな水が噴き出していたり、大きな緋鯉《ひごい》が泳いでいたりした。碧《あお》い水の面《おもて》には、もう日影が薄らいでいた。湯に入って汗を流して来た三人の顔には、青い庭木の影が映っていた。お今は肥った膝のうえに手巾《ハンケチ》を拡げて、時々サイダに咽喉《のど》を潤していたが、室と口を利くようなことはめったになかった。
室はどうかすると、幽鬱《ゆううつ》そうに黙り込んでしまった。
「あなたはほんとに真面目だわ。」
お増はビールを注《つ》いでやったりなどしたが、室は苦しそうに時々飲んでいるだけであった。
「今度二人で、どこかへ行ったらどう?」
お増は調子づいたように言いかけたが、やはり自分でしくじった。
夕方に三人はそこを出て、じきに電車で家へ帰った。
「駄目駄目。」
お増は家へ入ると、着物もぬがずに、べったり坐って、溜息をついた。
「人の気もしらないで、この人はどうしたというんだろ。」
五十一
お増がある物堅そうな家を一軒、小林の近所に見つけて、そこへお今を引き移らせてから大分たって、浅井がちょうど田舎から帰って来たのであった。
そこは小林の妾《めかけ》の身続きにあたる、ある勤め人の年老《としと》った夫婦ものであった。お増から身のまわりの物などを一ト通り分けてもらって、その家の二階に住まうことになったお今は、初めて世帯でも持つときのような不安と興味とを感じながら、ある晩方に、浅井の家を出て行ったのであった。
お増がそこいらから見つけだして、お今のために取り纏めようとした品物は、大抵お今には不満足であった。お今はお増の鏡台や、櫛笄《くしこうがい》だの襟留《えりどめ》だの、紙入れなどのこまこました持物に心が残った。
「私が新
前へ
次へ
全42ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング