ぬ男などと口を利くのが不思議なほど億劫《おっくう》であった。
 どの部屋もひっそりと寝静まった夜更《よなか》に、お増の耳は時々雨続きで水嵩《みずかさ》の増した川の瀬音に駭《おどろ》かされた。電気の光のあかあかと照り渡った東京の家の二階の寝間の様などが、目に映って来た。そこに友禅模様の肩当てをした夜着の襟から、口元などのきりりとした浅井が寝顔を出していた。階下《した》に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。疲れた頭の皮一重が、時々うとうとと眠りに沈むかと思うと、川の瀬音が苦しい耳元へ、またうるさく寄せて来たり、隣室の男の骨張った姿が、有明けの灯影におそろしく見えたりした。
 そこへ夜番の拍子木の音が、近づいて来た。
 夜のあけるに間もないころに、お増は湯殿の方へ独り出て行った。まだ人影の見えない浴槽《ゆぶね》のなかには、刻々に満ちて来る湯の滴垂《したた》りばかりが耳について、温かい煙が、燈籠《とうろう》の影にもやもやしていた。
 婦人病らしい神さん風の女や、目ざとい婆さんなどが、やがて続いて入って来た。
 お増が湯からあがるころには、外はもうしらしらと明けて来た。
「翌朝《あした》こそ帰りましょう。」
 昨夜《ゆうべ》一晩中思い続けていたお増は、朝になると、いくらか気が晴れて、頭脳《あたま》のなかのもやもやした妄想《もうそう》が、拭うように消えて行った。
 雨の霽《あが》った空には、山の姿がめずらしくはっきりして見えた。部屋から見える川筋にも、柔かい光が流れていた。
 朝飯の膳のうえに、病気の容体を気にしているお今の葉書が載っていた。家には何のこともないらしかった。

     三十三

 三週間というのを、やっと二週間そこそこで切り揚げて来たお増は、嶮《けわ》しい海岸の断崖《だんがい》をがたがた走る軽便鉄道や、出水《でみず》の跡の心淋《うらさび》しい水田、松原などを通る電車汽車の鈍《のろ》いのにじれじれしながら、手繰《たぐ》りつけるように家へ着いたのであった。いつも、じーんと耳の底が鳴るくらい淋しい湯宿の部屋にいつけた頭脳《あたま》は、入って来た日暮れ方の町の雑沓《ざっとう》と雑音に、ぐらぐらするようであった。
 お増はがっかりしたような顔をして、べったり長火鉢の前に坐って、そこらを見廻していた。
「まあ早かったこと。」
 
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