立っていたとき、大きな声を張り上げて叫んだ。そして独りで侘《わび》しげに笑った。声は何ほどの反響をも起さないで、淋しく山の空気に掻き消えた。
「おっと危い危い。」
浅井は足元の崩《ぐ》れだした山腹の小径《こみち》に踏み留まって、お増の手に掴《つか》まった。
「いやね。」とお増はその手を引っ張ったが、心は寂しいあるものに涵《ひた》されていた。蜜柑の匂いなどのする四下《あたり》には、草のなかに虫がそこにもここにも、ちちちちと啼いていた。
にやにやしている男の顔を、お増は時々じっと瞶《みつ》めていた。悪戯《いたずら》な企《たくら》みが、そこに浮いてみえるようであった。
三十二
浅井の行ってしまった寂しい部屋のなかに、お増は毎日湯疲れのしたような体を臥《ね》たり起きたりして暮したが、どうかすると草履《ぞうり》ばきで、外へ散歩に出かけることもあった。
部屋の硝子障子から見える川向うの山手の方に、がったんがったんと懈《だる》い音を立てて水車が一日廻っていたが、小雨《こさめ》などの降る日には、そこいらの杉木立ちの隙に藁家《わらや》から立ち昇る煙が、淡蒼《うすあお》く湿気のある空気に融《と》け込んで、子供の泣き声や鶏《とり》の声などがそこここに聞えた。春雨のような細い雨が、明るい軒端《のきば》に透しみられた。
垠《はずれ》の部屋へ来ている、気楽な田舎の隠居らしい夫婦ものの老人《としより》の部屋から碁石の音や、唐金《からかね》の火鉢の縁にあたる煙管の音が、しょっちゅう洩れて来たが、つい隣の隅の方の陰気くさい部屋にごろごろしている一人の青年の、力ない咳《せき》の声が、時々うっとりと東京のことなどを考えているお増の心を脅《おびや》かした。
「毎日雨降りでいけませんな。」
廊下へ出て、縁《へり》に蘇鉄《そてつ》や芭蕉《ばしょう》の植わった泉水の緋鯉《ひごい》などを眺めていると、褞袍姿《どてらすがた》のその男が、莨をふかしながら、側へ寄って来て話しかけた。男はまだ三十にもならぬらしく、色の小白い、人好きのよさそうな顔をしていた。時々高貴織りの羽織などを引っかけて川縁《かわべり》などを歩いているその姿を、お増は見かけていた。
「さようでございますね。」
お増は愛想らしく答えたが、よく男にでたらめな話の応答《うけこたえ》などの出来た以前の自分に比べると、こうした見知ら
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