の方から使いが来た。それを聞いて、浅井は、そこへ廻って見たのであった。
「どんな様子でしたね。」
お増は訊いた。別れ談《ばなし》がうまく纏《まと》まるかどうかが、あの事件以来、二人の頭に懈《だる》い刺戟《しげき》を与えていたが、細君からすっかり離れてしまった浅井の心には、まだ時々かすかな反省と苦痛とが刺《とげ》のように残っていた。
「むむ別に変りはない。」
浅井は、自分から見棄てられてしまった、寂しい荒れた家のさまや、絶望の手を拡げてまだ自分に縋《すが》りつこうとしているようなお柳のやるせない顔を、今見て来たままに思い浮べながら、淋しく笑った。
「話を持ち出して見たのですか。」
「それも口を切って見たけれど、ああなると女は解らなくなるものと見えて、さっぱり要領を得ない。」
「それはそうですよ。それでどう言っているんです。」
「要するにお前を突き出してくれと言うに過ぎない。」
浅井はお柳がお増のことをいろいろ聞きたがったことなどを思い出していた。
「どうせ当人同士じゃ話の纏まりっこはありませんよ。誰か人をお入れなさいよ。」
「それにしても、目と鼻の間じゃ仕事がしにくい。早く家を見つけなくちゃ。」
新しい家の方へ、間もなく荷物がそっと運び込まれた。綺麗な二階が二タ間もあるようなその家は、前の家からみると周囲《まわり》なども綺麗で住み心地がよさそうであった。しばらくのまにめっきり殖《ふ》えた道具を、お増は朝から一日かかって、それぞれ片着けた。そして久しぶりで燥《はしゃ》いだような心持になって、そこらを掃いたり拭いたりしていた。
洒落《しゃれ》た花形の電気の笠《かさ》などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊《さんれんたい》の赭《あか》い煉瓦《れんが》の兵営の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑《にぎ》やかな通りの方から、楽隊の囃《はやし》などが、聞えて来た。
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
置物などを飾っている浅井を振り顧《かえ》って、お増は悦《うれ》しそうに浮き浮きした調子で言いかけた。
二十一
心のわさわさするような日が、年暮《くれ》から春へかけて幾日《いくか》となく続いた。お増は暮の町を珍しがるお今をつれて、ちょいちょいした物を買いに、幾度となく通り
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