十
その晩そこに泊った浅井が、明朝《あした》目を醒《さ》ましたのは大分遅くであった。その日もじりじり暑かった。昨夜《ゆうべ》更けてから、寝床のなかで、どこかの草間《くさあい》や、石の下などで啼《な》いている虫の音を聞いた時には、もう涼しい秋が来たようで、壁に映る有明けの灯影や、枕頭《まくらもと》におかれたコップや水差し、畳の手触りまでが、冷やかであったが、睡《ねむ》りの足りない頭や体には、昼間の残暑は、一層じめじめと悪暑く感ぜられた。
浅井を送り出してから、お増はまた夜の匂いのじめついているような蒲団のなかへ入って、うとうとと夢心地に、何事をか思い占めながら気懈《けだる》い体を横たえていた。その懈さが骨の髄まで沁《し》み拡がって行きそうであった。障子からさす日の光や、近所の物音――お千代婆さんの話し声などの目や耳に入るのが、おそろしいようであった。
「こんなことをしていちゃ、二人の身のうえにとてもいいことはないね。」
昨夜浅井が床のなかで言ったことなどが思い出された。
「真実《ほんとう》だわ。罪だわ。」
お増も、枕の上へ胸からうえを出して、莨を喫《す》いながら呟《つぶや》いた。お増の目には、麹町の家に留守をしている細君の寂しい姿が、ありあり見えるようであった。苦しい心持も、身につまされるようであった。
「いつかはきっと見つかりますよ。見つかったらそれこそ大変ですよ。」
お増の顔には、悪い夢からでもさめかかった人のような、苦悩と不安の色が漂っていた。
「ふふん。」
浅井は鼻で笑っていた。
「こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。」
「けれど、あの女もよくないよ。彼奴《あいつ》さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己《おれ》だってそう莫迦《ばか》な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。」
「でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。」
「尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介《やっかい》かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。」
留守のまに、細君が知合いの家で、よく花を引いて歩いたり、酒を飲んだり、買食いをしたりする
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