から駄目なのよ。でも、こんな商業《しょうばい》をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。」
 お雪は苦笑していた。
「それから見れば、お増さんなぞは僥倖《しあわせ》だよ。せいぜい辛抱おしなさいよ。」
 お雪は、今外交官をしている某《なにがし》の、まだ書生でいる時分に、初めて妾に行ったときのことなどを話しだした。そして当然そこの夫人に直される運命を持っていたお雪は、田舎でもかなりな家柄の人の娘であった。二人の間には、愛らしい女の子まで出来ていたのであった。
「どうしてそこへ行かないの。」
「もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。」
 お雪はそのころのことを憶い出すように、目を輝かした。その時分お雪はまだ二十歳《はたち》を少し出たばかりであった。色の真白い背のすらりとした貴婦人風の、品格の高い自分の姿が、なつかしく目に浮んで来た。
「それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆《ちん》のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪《えら》いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様《あべこべ》に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚《ほ》れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父《おとっ》さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。」
「あなた子供に逢いたくはないの。」
「逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託《あず》けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼《うち》へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》に
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