一度ちょっと訪ねたことのある友達の顔が、またなつかしく憶《おも》い出された。お雪というその友達は、お増と前後して同じ家にいた女であった。一度人の妾《めかけ》になって、子まで産んだことのあるお雪は、お増よりも大分年上であった。お増は気振りなどのさっぱりしたその女と誰よりも親しくしていた。
女の亭主は、もとかなり名の聞えた新俳優であった。ずっと以前に政治運動をしたことなどもあった。お増は、口元の苦味走った、目の切れの長いその男をよく知っていた。
「また青柳《あおやぎ》がやって来たよ。」
お雪と喧嘩などをして、切れたかと思うと、それからそれへと渡り歩いていた旅から帰って来て、情婦《おんな》の部屋へ坐り込んでいるその男の噂《うわさ》が、お増の部屋へ、一番早く伝わった。
旅稼《たびかせ》ぎから帰って来た青柳は、放浪者のように窶《やつ》れて、すってんてんになってお雪のところへ転げこんで来るのであったが、お雪は切れた切れたと言いながら、やはり男の帰って来るのを待っていた。その家でも、一番よく売れたお雪は、娘を喰いものにしている一人の母親のお蔭で、そのころ大分|自暴気味《やけぎみ》になっていた。大きなもので酒を呷《あお》ったり、気の向かない時には、小っぴどく客を振り飛ばしなどした。二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛《ただ》れていた。傍で見ているお増などの目に凄《すご》いようなことが、時々あった。
そこを出るとき、お雪の身に着くものと言っては、何にもなかった。箪笥《たんす》がまるで空《から》になっていた。以前ついていた種のいい客が、一人も寄りつかなくなっていた。お雪は着のみ着のままで、男のところへ走ったのであった。
浅草のある劇場の裏手の方の、その家を初めて尋ねて行った時、青柳の何をして暮しているかが、お増にはちょっと解らなかった。
「良人《うち》はこのごろ妙なことをしているんだよ。」
お雪はお増を長火鉢の向うへ坐らせると、いきなり話しだした。見違えるほど血色に曇《うる》みが出来て、髪なども櫛巻《くしま》きのままであった。丈《たけ》の高い体には、襟《えり》のかかった唐桟柄《とうざんがら》の双子《ふたこ》の袷《あわせ》を着ていた。お雪はもう三十に手の届く中年増《ちゅうどしま》であった。
「へえ、何しているの。」
などとお増は、そこへ土産物《みやげも
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