会社の事務室へ入って行った浅井は、いつもかけつけの、帳簿などのぎっしり並んだデスクの前に腰かけたが、心が落ち着かなかった。建築物の請負いや地所売買の仲介などを営業としているその会社で、浅井は近ごろかなりな地位を占めて来たが、そこまで漕ぎつけるまでには、一身上にいろいろの変遷があった。会社内の誰にもそんなに頭を下げずに通されるようになった浅井は、時々過去を振り顧《かえ》ったり、立っている自分の脚元を眺めずにはいられなかった。関係したさまざまの女が、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いた。経済や自分の機嫌を取ることの上手なお増と一緒になってから、めきめき自分の手足が伸びて来た。
「お柳さんのような人と一緒にいては、とても有達《うだつ》があがりませんよ。」
いつかそんなことをお増にいわれたが、それはそうかも知れないと、浅井も心に頷けた。
「それに、己もちょうど働きざかりだ。これで女にさえ関係しなければ、己も一廉《ひとかど》の財産ができる。」
浅井は呟いたが、それだけではやっぱりその日その日の満足が得られそうもなかった。
「ちっと女からも取っておいでなさいよ。」
お増は笑談らしく言うのであった。
「それじゃやっぱり駄目だ。金を費《つか》うからこそ面白いんだ。」
客に接したり、手紙の返辞を書いたりしていると、じきに昼になった。紛糾《こぐらか》った事務に没頭した彼の忙しい心に、時々お今のことが浮んだ。隔たってからの少女から、どんな手紙が書かれるかが、待ち遠しいようであったが、仮に女を自分のものにしてしまってからの、内外の事件の煩わしさが、今から想像できるようであった。
四時ごろに、会社を出て行った浅井と、一人の友達の姿が、じきにそこからほど近い、とある新道のなかへ入って行った。隘《せま》いその横町には、こまごました食物屋が、両側に軒を並べていた。やがて二人は、浅井が行きつけの小じんまりした一軒の料理屋の上り口に靴をぬぐと、堅い身装《みなり》をした女に案内されて、しゃれた二階の小室《こま》へ通った。
箸と猪口《ちょく》の載った会席膳が、じきに二人の前におかれて、気づまりなほど行儀のいい女が、酒のお酌をした。ほどのいい軽い洒落《しゃれ》などを口にしながら、二人はちびちび飲みはじめたが、会社の重役や、理事の風評《うわさ》なども話題に上った。女遊びの話も、酒の興を添えていた。
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