のであった。
「私今度出て来たら、またこっちへ来てもいいでしょうか。」
 お今はふと想い出したように頭を抬《あ》げた。
「いいとも。」
 浅井は頷《うなず》いて見せたが、女を別のところに置いてみたいような秘密の願いが、新しく心に湧《わ》いていた。
「しかし十分お今ちゃんの力になろうというには、ここでは都合がわるいかも知れない。」
 浅井は女を煽動《せんどう》するような、危険な自分の好奇心を感じながら言った。
 静子の後向きになって、人形に着物を着せたり脱がしたりしている姿が、しんとした部屋の襖《ふすま》の蔭から見られた。その目が、時々こっちを振り顧《かえ》った。
 野菜ものを買いに出て来た婆やと、病院から帰ったお増とが、ちょうど一緒であった。
 翌朝《あした》お今のたつ時、浅井は二階の寝室《ねま》でまだ寝ていた。階下《した》のごたごたする様子が、うとうとしている耳へ、伝わって来た。
 やがてお今があがって来て、枕頭《まくらもと》へ旅立ちの姿を現わした。
「それではちょっと帰ってまいります。」
 そこへ手をついてお今があらたまった挨拶をした。

     三十八

 お今を還《かえ》してしまってからの浅井は、この日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲《みなぎ》って来た。静子をつれて、停車場まで見送って行ったお増が、二時間ばかり経ってから帰って来るまで、浅井はうとうとと寝所《ねどこ》のなかに、とりとめのない物思いに耽っていたが、展開せずに、幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。やがて新しい幕が、自分の操《あやつ》り方一つでそこに拡がって来そうであった。
「ただいま。どうもいろいろ有難うございました。」
 お増は帰りに静子の手をひいてぶらぶら歩いたついでに銀座から買って来た、セルロイドの小さい人形や、動物などを、浅井の枕頭《まくらもと》へ幾個《いくつ》も幾個も転《ころ》がしながら、面白そうに笑った。
「ちょいと御覧なさいよ。」
「ふふ。」浅井も笑いながら、尻に錘《おもり》のついた動物どもを、手に取りあげて眺めていた。
「外に出てみると、年の少《わか》い女が目につきますね。」
 お増は枕頭《まくらもと》を起ちがけに思い出したように呟いた。
「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢《いろつや》がまる
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