合つてゐる訳ではなかつた。謂はばそれは優れた天才肌の偏倚的な芸術家と、普通そこいらの人生行路に歩みつかれて、生活の下積みになつてゐる凡庸人とのあひだに掘られた溝のやうなものであつた。K―に奇蹟が現はれて、センチメンタルな常識的人情感が、何らかの役目を演じてくれるか、T―が芸術的にか生活的にか、孰かの点で、或程度までK―に追随することができたならば、二人の交渉は今までとはまるで違つたものであるに違ひなかつた。
 ところで、K―と私自身とは、それとは全然違つた意味で、長いあひだ殆んど交渉が絶えてゐた。それは芸術の立場が違つてゐるせゐもあつたが、同じくO―先生の息のかかつた同門同志の啀み合ひでもあつた。同じ後輩として、O―先生との個人関係の親疎や、愛敬の度合ひなどが、O―先生の歿後、いつの間にか、遠心的に二人を遠ざからしめてしまつた。K―からいへば、芸術的にも生活的にもO―先生は絶対のものでなくてはならなかつたが、私自身はもつと自由な立場にゐたかつた。その気持が、時には無遠慮にK―の芸術にまで立入つて行つた。そしてK―の後半期の芸術に対する反感が又反射的にO―先生の芸術へかかつて行つた。そしてそこに感情の不純が全くないとは言ひ切れなかつた。勿論K―から遠ざけられてゐるT―に、いくらかの助力と励みを与へたとしても、それは単にT―が人懐つこく縋つてくるからで、それとは何の関係もなかつた。K―への敵意でもなかつたし、認識された陰の好意からでは尚更らなかつた。追憶的な古い話が出ると、私は時々T―にきいた。
「兄さんこの頃何うしてるのかね。」
「兄ですか。家に引こんで本ばかり読んでゐますよ。もう大分白くなりましたよ。」
「兄さん白くなつたら困るだらう。」
「でも為方がないでせう。」
 さう言つて笑つてゐるT―が、一ト頃の私のやうに、髪を染めてゐることに、最近私はやつと気がついた。T―ももう順順にさういふ年頃になつてゐた。
 兎に角私はK―へ知らせておかなければならなかつた。私は文士録をくつて番号を調べてから、近くにある自働電話へかかつて行つた。耳覚えのある女の声がした。勿論それは夫人であつた。
「突然ですが、T―さんが私のところで、病気になつたんです。可なり重態らしいのです。」
「T―さんがお宅で。まあ。」
「電話では詳しいお話も出来かねますけれど、誰方か話のわかる方をお寄越しになつて戴きたいんですが……。」
「さうですか。生憎主人が風邪で臥せつてをりますので、今晩といふ訳にもまゐりませんけれど、何とかいたしませう。お宅でも飛んだ御迷惑さまで……。」
「いや、それはいいんですが……では、何うぞ。」
 私は自働電話を出た。そして机の前へ来て坐つてみたが、落着かなかつた。ベルを押して、義弟の沢を呼んだ。沢は私の家政をやつてくれてゐるお利加おばさんの夫であつた。
「K―さん見えないんですか。」沢は火鉢の前へ来て坐つた。
「さあ……K―君に来てもらつても困るんだが……。」私は少し苛ついた口調で、
「大分悪いやうだから、病院へ入れなけあいけないと思ふが、浦上さんの診断は何うなんかな。診察がすんだら、こちらへ寄つてもらふやうに言つておいたんだが……。」
「さあ、それは聞きませんでしたが……。」
「すまんけれど、浦上さんへ行つてきいてみてくれないか。」
 沢は出て行つたが、間もなく帰つて来た。部屋の入口へ現はれた彼は悉皆興奮してゐた。
「あの医者はひどいですね。ベルをいくら押しても起きないんです。漸と起きて来て、戸をあけたかと思ふと、恐ろしい権幕で脅かすんです。医者も人間ですよ、夜は寝なけあなりません、貴方のやうに夜夜中《よるよなか》ベルを鳴らして、非常識にも程がある、と、かうなんです。」
「結局何うしたんだ。」
「あんな病人を、婦人科の医者にかけたりして、長く放抛《うつちや》らしておいて、今頃騒いだつて、私は責任はもてません、と言ふんです。私は余程ぶん殴つてしまはうかと思つたんですけれど、これから又ちよいちよい頼まなけあならないと思つたもんだから……。」
「あのお医者正直だからね。」私は苦笑してゐた。

     四
 翌朝診察を終つた浦上ドクトルと、私は玄関寄りの部屋で話してゐた。誰か帝大の医者に、もう一度診察してもらつたうへで、家で手当をするか、病室へかつぎこむかしようと思つて、その医者の撰定について相談をしてゐた。
 玄関の戸があいた。お利加さんが出た。
「わたし毛利です。K―先生の代理として伺つたんですが。」
 毛利といふ声が、何んとなし私に好い感じを与へた。
 毛利氏が入つて来た。毛利君と私はつひ最近入院中の渡瀬ドクトルの病室でも、久しぶりで顔を合せたが、渡瀬ドクトルが自宅療養のこの頃、又その二階の病室でも逢つた。K―氏の古い弟子格のフアンの一人であるところの毛利氏は、渡瀬氏ともまた年来の懇親であつた。彼は会社の公用や私用やらで、大連からやつて来て、大阪と東京とのあひだを、往つたり来たりしながら、暫らく滞在してゐた。
 毛利氏は入つて来た。
「あんたが来てくれれば。」
「いや、K―先生が来るとこだけど、ちやうど私がお訪ねしたところだつたもんだから。」
「K―君に来てもらつても、方返しがつかないんだ。」
「貴方には飛んだ御迷惑で……T―君何処にゐるんですか。」
 私はアパアトの三階にゐることについて、簡単に話した。
「そんなものがあるんですか。私はまた貴方のお宅だと思つて……。」
 T―の細君が、そつと庭からやつて来た。
「何だか変なんです。脈が止つたやうなんですが……。」彼女は泣きさうな顔をしてゐた。
「ちよつと見てあげませう。」浦上ドクトルが、折鞄をもつて起ちあがつた。
「僕も往つてみよう。」毛利氏も庭下駄を突かけて、アパアトの方へいつた。私も続いた。
 私は初めてT―の病床を見た。三階の六畳に、彼は氷枕をして仰向きに寝てゐた。大きな火鉢に湯気が立つてゐた。つひ三日程前夕暮れの巷に、赭のどた[#「どた」に傍点]靴を磨かせてゐたT―のにこにこ顔は、すつかり其の表情を失つてゐた。頬がこけて、鼻ばかり隆く聳えたち、広い額の下に、剥きだし放《ぱな》しの大きい目の瞳が、硝子玉のやうに無気味に淀んでゐた。しかし私は、今まで幾度となく人間の死を見てゐるので、別に驚きはしなかつた。それどころか、実を言ふと、肝臓癌を宣告されてゐる渡瀬ドクトルを見るよりも、心安かつた。T―がすつかり脳を冒かされてゐるからであつた。つひ此の頃、あれ程勇敢に踊りを踊り、酒も飲み、若い愛人ももつてゐた渡瀬ドクトルの病気をきいては驚いてゐたが、今やそのT―が何うやら一足先きに退場するのではないかと思はれて来た。
 みんなで来て見ると、脈搏は元通りであつたが、硬張つた首や手が、破損した機関のやうに動いて、喘ぐやうな息づかひが、今にも止まりさうであつた。細君はおろおろしながら、その体《からだ》に取《と》りついてゐた。額に入染《にじ》む脂汗《あぶらあせ》を拭き取つたり頭をさすつたり、まるで赤ん坊をあやす慈母のやうな優しさであつた。誰も口を利かなかつたが、目頭が熱くなつた。黒い裂《きれ》に蔽はれた電燈の薄明りのなかに、何か外国の偉大な芸術家のデツド・マスクを見るやうな物凄いT―の顔が、緩漫に左右に動いてゐた。
 暫くしてから、私達はそこを出て、旧の部屋へ還つた。
「少し手遅れだつたね。」私は言つた。
「さうだな。去年旅行先きで、怪我をして、肋骨を折つたといふ。」
 細君が又庭づたひにやつて来た。
「大変苦しさうで、見てゐられませんの。何とか出来ないものでせうか。」
 私達は医者の顔色を窺ふより外なかつた。
「さあ、どうも……。」ドクトルも当惑した。
「先刻注射したばかりですからね。他の人が来るまで附いてゐて下さい。大丈夫ですから。」
 ドクトルはやがて帰つて来た。
「それぢや、僕はちよつと渡瀬さんとこへ行つて、先生にもちよつと相談してみよう。」毛利氏はさう言つて起ちがけに、ポケツトへ手を突込んで、幾枚かの紙幣を掴みだした。
「百円ありますが、差当りこれだけお預けしておきます。先立つものは金ですから、何うぞ適宜に。」
「ぢや、それ此の人に渡しておかう。」私はそこにゐる細君の方を見た。
「いや、あんた預つて下さい。」
「孰でも同じだが、預つておいても可い。しかし貴方差当り必要だつたら……。」
「え少し戴いておきますわ。」
 二十円ばかり細君の手に渡した。
「ぢや、僕は又後に来ます。」
 毛利氏はさう言つて出て行つた。
 私はづつとの昔し、彼が帝大を出たてくらゐの時代に、電車のなかなどで、口を利いたことがあつたが、渡瀬ドクトルと親密の関係にある毛利氏の人柄に、この頃漸と触れることができた。K―は今は文学以外の、実際自分の仕事にたづさはつてゐる、それらの人達を、幾人となく其の周囲にもつてゐたが、この場合、私をも解つてくれさうな彼の来てくれたことは悉皆私の肩を軽くした。
 その間に、私は義弟を走らせて、浦上ドクトルが指定してくれた医者の一人、島薗内科のF―学士を迎ひにやつたが、折あしく学士は不在であつた。
「……それから自宅へ行つてみたんですが、矢張り居ませんでした。」
「そいつあ困つたな。」
「けど、帰られたら、すぐお出で下さるやうに、頼んでおきましたから。」沢は言ふのであつた。
 一時間ほどして毛利氏も帰つて来た。しかし待たれる医者は来なかつた。
「どれ、僕行つてこよう。若しかしたら、他の先生を頼んでみよう。」
 毛利氏はまた出て行つたが、予備に紹介状をもらつておいた他の一人にも、可憎《あいにく》差閊へがあつた。彼は空しく帰つて来た。
 私達は、今幽明の境に彷徨ひつつあるT―に取つて、殆んど危機だと思はれる幾時間かを、何んの施しやうもなく仇に過さなければならなかつた。
「今度の細君はよささうだね。」
「あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。」
「兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?」
「さあね。」
 時間は四時をすぎてゐた。そしてF―医学士の来たのは、それから又大分たつてからであつた。彼は浦上ドクトルと一緒に、三階で診察をすましてから、私の部屋へやつて来た。
「重体ですね。」いきなり医学士は言つた。
「病気は何ですか。」
「私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。」
「窒扶斯ぢやありませんね。」私はその事が気にかかつた。
「さうぢやありませんね。」
「それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。」
「さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。」
「これは細君の気持に委さう。」毛利氏が言ふので、私達は彼女を見た。
「病院で出来るだけの手当をして頂きたいんですけれど……。」
 やがて毛利氏が寝台車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]ひに行つた。

     五
 その夜の十時頃、私はM―子と書斎にゐた。M―子は読みかけた「緋文字」に読み耽つてゐたし、私は感動の既に静つた和やかさで、煙草を喫かしてゐた。
 それはちやうど三時間ほど前、T―の寝台車が三階から担ぎおろされて行つてから、暫らくたつて、私は私の貧しい部屋に、K―の来訪を受けたからであつた。
「今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。」
「いや別に……。行きがかりで……。」
「何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。」
「さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。」
 K―はせかせかと気忙しさうに、
「彼奴もどうも、何か空想じみたことばかり考へてゐて、足元のわからない男なんだ。何でもいいから、こつこつ稼いで……たとひ夜店の古本屋でも、自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論
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