ゐたT―のにこにこ顔は、すつかり其の表情を失つてゐた。頬がこけて、鼻ばかり隆く聳えたち、広い額の下に、剥きだし放《ぱな》しの大きい目の瞳が、硝子玉のやうに無気味に淀んでゐた。しかし私は、今まで幾度となく人間の死を見てゐるので、別に驚きはしなかつた。それどころか、実を言ふと、肝臓癌を宣告されてゐる渡瀬ドクトルを見るよりも、心安かつた。T―がすつかり脳を冒かされてゐるからであつた。つひ此の頃、あれ程勇敢に踊りを踊り、酒も飲み、若い愛人ももつてゐた渡瀬ドクトルの病気をきいては驚いてゐたが、今やそのT―が何うやら一足先きに退場するのではないかと思はれて来た。
みんなで来て見ると、脈搏は元通りであつたが、硬張つた首や手が、破損した機関のやうに動いて、喘ぐやうな息づかひが、今にも止まりさうであつた。細君はおろおろしながら、その体《からだ》に取《と》りついてゐた。額に入染《にじ》む脂汗《あぶらあせ》を拭き取つたり頭をさすつたり、まるで赤ん坊をあやす慈母のやうな優しさであつた。誰も口を利かなかつたが、目頭が熱くなつた。黒い裂《きれ》に蔽はれた電燈の薄明りのなかに、何か外国の偉大な芸術家のデツド・マス
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