私は自身の怠慢に、今度も亦漸と気がついたやうに感じたと共に、浦上の診断を細君にききたかつた。急いで庭を突切つて、アパアトの裏口から入つていつた。ちやうど二段になつてゐる三階の段梯子を登りきつたところで、そこの天井裏の広い板敷の薄|闇黒《くらがり》に四十年輩の体の小締めな、私の見知らない紳士と、背のすらりとした若い女と、ひそひそ立話をしてゐるのに出会した。私はちよつと躊躇したのち、今診察を終つて、帰らうとしてゐる其の医者に話しかけた。
「失礼ですが、ちよつと私の部屋までおいで願ひたいんですが。」
「よろしうございます。」
幼児のやうな柔軟さをもつた彼は、足を浮かすやうにして私について来た。
私達は取散かつた私の書斎で、火鉢を間にして挨拶し合つた。
「私は少々お門違ひの婦人科でして、昼間病院にゐるものですから。」彼は名刺を出した。
「ぢやT―君が、最近※[#「やまいだれ+票」、第3水準1−88−55]疽を癒していただいたのは貴方ですか。」
「さうですよ、は、はい。」
ドクトルはモダアンな少年雑誌の漫画のやうに愛嬌があつた。
「病気はどんなですか。」
「は、は……実は昨日もちよつと来て診ましたが、その時は分明《はつきり》わかりませんでしたが、今診たところによりますと、肺炎でも窒扶斯でもありませんな。原因はよくわかりませんが、脳膜炎といふことだけは確実ですよ、は、は。」
「脳膜炎ですか。」
「今夜あたり、もう意識がありませんよ、は。兎に角これは重体です。去年旅先で、井戸へおちて、肋骨を打たれたので、或ひは肺炎ではないかと思つてをりましたが、どうも其れらしい症状は見出せません。」
「窒扶斯でもないんですか。」
「その疑ひもないことはなかつたのですが、断じてさうぢやありませんな。」
ドクトルは術語をつかつて、詳しく症状を説明したが、明朝もう一度来てもらふことにして、私は玄関まで送りだした。
「では……は、は……ごめん、ごめん。」ドクトルは操り人形のやうな身振りで出て行つた。
私は事態の容易でないことを感じた。T―自身にもだが、T―の兄のK―氏に対する責任が考へられた。たとひ其れが不断何んなに仲のわるい友達同志であるにしても、T―の唯一の肉身であるK―氏の耳へ入れない訳にいかなかつた。T―は兼々この兄に何かの助力を乞ふことを、悉皆断念してゐた。勿論この兄弟は、本当に憎み合つてゐる訳ではなかつた。謂はばそれは優れた天才肌の偏倚的な芸術家と、普通そこいらの人生行路に歩みつかれて、生活の下積みになつてゐる凡庸人とのあひだに掘られた溝のやうなものであつた。K―に奇蹟が現はれて、センチメンタルな常識的人情感が、何らかの役目を演じてくれるか、T―が芸術的にか生活的にか、孰かの点で、或程度までK―に追随することができたならば、二人の交渉は今までとはまるで違つたものであるに違ひなかつた。
ところで、K―と私自身とは、それとは全然違つた意味で、長いあひだ殆んど交渉が絶えてゐた。それは芸術の立場が違つてゐるせゐもあつたが、同じくO―先生の息のかかつた同門同志の啀み合ひでもあつた。同じ後輩として、O―先生との個人関係の親疎や、愛敬の度合ひなどが、O―先生の歿後、いつの間にか、遠心的に二人を遠ざからしめてしまつた。K―からいへば、芸術的にも生活的にもO―先生は絶対のものでなくてはならなかつたが、私自身はもつと自由な立場にゐたかつた。その気持が、時には無遠慮にK―の芸術にまで立入つて行つた。そしてK―の後半期の芸術に対する反感が又反射的にO―先生の芸術へかかつて行つた。そしてそこに感情の不純が全くないとは言ひ切れなかつた。勿論K―から遠ざけられてゐるT―に、いくらかの助力と励みを与へたとしても、それは単にT―が人懐つこく縋つてくるからで、それとは何の関係もなかつた。K―への敵意でもなかつたし、認識された陰の好意からでは尚更らなかつた。追憶的な古い話が出ると、私は時々T―にきいた。
「兄さんこの頃何うしてるのかね。」
「兄ですか。家に引こんで本ばかり読んでゐますよ。もう大分白くなりましたよ。」
「兄さん白くなつたら困るだらう。」
「でも為方がないでせう。」
さう言つて笑つてゐるT―が、一ト頃の私のやうに、髪を染めてゐることに、最近私はやつと気がついた。T―ももう順順にさういふ年頃になつてゐた。
兎に角私はK―へ知らせておかなければならなかつた。私は文士録をくつて番号を調べてから、近くにある自働電話へかかつて行つた。耳覚えのある女の声がした。勿論それは夫人であつた。
「突然ですが、T―さんが私のところで、病気になつたんです。可なり重態らしいのです。」
「T―さんがお宅で。まあ。」
「電話では詳しいお話も出来かねますけれど、誰方か話のわかる方をお寄越しにな
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