く帰つて来た。
私達は、今幽明の境に彷徨ひつつあるT―に取つて、殆んど危機だと思はれる幾時間かを、何んの施しやうもなく仇に過さなければならなかつた。
「今度の細君はよささうだね。」
「あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。」
「兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?」
「さあね。」
時間は四時をすぎてゐた。そしてF―医学士の来たのは、それから又大分たつてからであつた。彼は浦上ドクトルと一緒に、三階で診察をすましてから、私の部屋へやつて来た。
「重体ですね。」いきなり医学士は言つた。
「病気は何ですか。」
「私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。」
「窒扶斯ぢやありませんね。」私はその事が気にかかつた。
「さうぢやありませんね。」
「それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。」
「さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。」
「これは細君の気持に委さう。」毛利氏が言ふので、私達は彼女を見た。
「病院で出来るだけの手当をして頂きたいんですけれど……。」
やがて毛利氏が寝台車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]ひに行つた。
五
その夜の十時頃、私はM―子と書斎にゐた。M―子は読みかけた「緋文字」に読み耽つてゐたし、私は感動の既に静つた和やかさで、煙草を喫かしてゐた。
それはちやうど三時間ほど前、T―の寝台車が三階から担ぎおろされて行つてから、暫らくたつて、私は私の貧しい部屋に、K―の来訪を受けたからであつた。
「今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。」
「いや別に……。行きがかりで……。」
「何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。」
「さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。」
K―はせかせかと気忙しさうに、
「彼奴もどうも、何か空想じみたことばかり考へてゐて、足元のわからない男なんだ。何でもいいから、こつこつ稼いで……たとひ夜店の古本屋でも、自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論
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