人であるところの毛利氏は、渡瀬氏ともまた年来の懇親であつた。彼は会社の公用や私用やらで、大連からやつて来て、大阪と東京とのあひだを、往つたり来たりしながら、暫らく滞在してゐた。
 毛利氏は入つて来た。
「あんたが来てくれれば。」
「いや、K―先生が来るとこだけど、ちやうど私がお訪ねしたところだつたもんだから。」
「K―君に来てもらつても、方返しがつかないんだ。」
「貴方には飛んだ御迷惑で……T―君何処にゐるんですか。」
 私はアパアトの三階にゐることについて、簡単に話した。
「そんなものがあるんですか。私はまた貴方のお宅だと思つて……。」
 T―の細君が、そつと庭からやつて来た。
「何だか変なんです。脈が止つたやうなんですが……。」彼女は泣きさうな顔をしてゐた。
「ちよつと見てあげませう。」浦上ドクトルが、折鞄をもつて起ちあがつた。
「僕も往つてみよう。」毛利氏も庭下駄を突かけて、アパアトの方へいつた。私も続いた。
 私は初めてT―の病床を見た。三階の六畳に、彼は氷枕をして仰向きに寝てゐた。大きな火鉢に湯気が立つてゐた。つひ三日程前夕暮れの巷に、赭のどた[#「どた」に傍点]靴を磨かせてゐたT―のにこにこ顔は、すつかり其の表情を失つてゐた。頬がこけて、鼻ばかり隆く聳えたち、広い額の下に、剥きだし放《ぱな》しの大きい目の瞳が、硝子玉のやうに無気味に淀んでゐた。しかし私は、今まで幾度となく人間の死を見てゐるので、別に驚きはしなかつた。それどころか、実を言ふと、肝臓癌を宣告されてゐる渡瀬ドクトルを見るよりも、心安かつた。T―がすつかり脳を冒かされてゐるからであつた。つひ此の頃、あれ程勇敢に踊りを踊り、酒も飲み、若い愛人ももつてゐた渡瀬ドクトルの病気をきいては驚いてゐたが、今やそのT―が何うやら一足先きに退場するのではないかと思はれて来た。
 みんなで来て見ると、脈搏は元通りであつたが、硬張つた首や手が、破損した機関のやうに動いて、喘ぐやうな息づかひが、今にも止まりさうであつた。細君はおろおろしながら、その体《からだ》に取《と》りついてゐた。額に入染《にじ》む脂汗《あぶらあせ》を拭き取つたり頭をさすつたり、まるで赤ん坊をあやす慈母のやうな優しさであつた。誰も口を利かなかつたが、目頭が熱くなつた。黒い裂《きれ》に蔽はれた電燈の薄明りのなかに、何か外国の偉大な芸術家のデツド・マス
前へ 次へ
全14ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング