、消息もたえてしまつた私のことを、先生が怒つてゐるらしかつた。私は咽喉が少し快くなりかかつて来たところで、或る日遽かに人々に別を告げて、船に乗つた。そして乗つた瞬間から、私の熱病はけろりと癒つてしまつた。船の酔ひが一歩上陸した瞬間に癒ると同じなのである。
その後私は時々別府を思ひ出すのだが、別府へ行けば福岡や博多、長崎などへも寄りたいし、中国や四国も見たくなるから、大阪や京都へ行くことがあつても、何時も別府まで延さうといふ機会もなくて過ぎてしまつたのである。私は帰りにちよつと京都を瞥見した。京都には自由党の支部に長岡以来の渋谷黙庵氏がゐたが、帰りに立寄るやうに言つてよこしたので、白峰氏の家に一両日足を止めることにした。それが何の辺であつたのか、頓と見当もつきかねるが、塾にゐる時分、僅か四銭か三銭五厘かのパイレイト一つ買ふのに三四人で出しつこをして、時によると一本の紙巻を半分に切つて、分配したほどの貧乏であつたのに、京都における彼は相当広い部屋が三つもある二階の書斎に頑張つて、母堂と夫人と三人家族に落着いてゐたのである。佗しい放浪の旅をつづけてゐる私には、白峰氏の気取つた家庭振が、何か可笑しいやうでもあつたが、自分の姿が寂しいやうな感じでもあつた。渋谷氏は二度も私を迎ひに来たが、或る日其の頃政友会の幹部であつた尾崎行雄氏が醍醐寺を訪問するといふので、案内役の渋谷氏が私をも誘つたので其の一行に加はり、所謂醍醐の花見で有名な其の寺を訪れ、宝物を見せてもらつたが、本当の案内役は島文博士であつた。花見の折の諸大名の短冊の綴込みを見たことだけは、今でも覚えてゐるが古画のうちには国宝もあつたやうである。私はそこで精進料理を御馳走になつたが、美術など鑑賞してゐる余裕は、勿論私にはなかつた。母堂や白峰氏の案内で、四条や三条、御所や嵐山、清水、金閣寺、祇園の都踊りなども見たが、京都で遊ぶには私の気分はすこしあわただし過ぎたし、懐中も寂しすぎたのである。私が先生へのお土産に鯉の丸揚げ(つまり支那料理の紅焼鯉に似たもの)をもつて東京へついたのは、下宿の窓は若楓の葉がそよいでゐる晩春のことであつたが、京都を立つとき、駅で其のたれ[#「たれ」に傍点]の入つた壜を落して壊してしまつたので、遺憾ながら鯉だけ届けたのも滑稽であつた。
下宿のお神が、別府の或る旅館の娘であることも、この旅行から帰つ
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