風呂桶
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)寂《さび》しかつた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結構|脱《のが》れて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 津島はこの頃何を見ても、長くもない自分の生命を測る尺度のやうな気がしてならないのであつた。好きな草花を見ても、来年の今頃にならないと、同じやうな花が咲かないのだと思ふと、それを待つ心持が寂《さび》しかつた。一年に一度しかない、旬《しゆん》のきまつてゐる筍《たけのこ》だとか、松茸《まつたけ》だとか、さう云ふものを食べても、同じ意味で何となく心細く思ふのであつた。不断散歩しつけてゐる通りの路傍樹の幹の、めきめき太つたのを見ると、移植された時からもう十年たらずの歳月のたつてゐることが、またそれだけ自分の生命を追詰めて来てゐるのだと思はれて、好い気持はしないのであつた。しかし津島のやうな年になると、死に面してゐる肺病患者が、通例死の観念と反対の側に結構|脱《のが》れてゐられると同じやうに、比較的年の観念から離れがちな日が過せるのであつた。闇雲《やみくも》に先きを急ぐやうな若い時の焦躁《せうそう》が、古いバネのやうに弛《ゆる》んで、感じが稀薄になるからでもあるが、一つは生命の連続である子供達の生長を悦《よろこ》ぶ心と、哀れむ心が、自分の憂ひを容赦してくれてゐるのであつた。
 その朝津島は一人の来客と無駄話をしてゐた。そんな時に彼は、それが特別な興味を惹《ひ》くとか、親しみを感ずるとかいふ場合でない限り、気分が苛々《いら/\》して来るのであつた。いつもさう感じもしない時間の尊いことを、特別に思ひだしでもしたやうに、取返しのつかない損をしてゐるやうに感じて、苛々するのであつたが、しかし其の人が遠慮して帰りさうにすると、思ひ切りわるく引止めたくもなるのであつた。津島は其の時ふと、妙なことが気になつた。それは其の来客と何の係りもないことだが、それが気になり出すと、もう落着いて応答してゐられないのであつた。彼は浮《うわ》の空《そら》で話のばつだけを合してゐた。それは板塀《いたべい》一つ隔てた、津島の書斎から言へば、前の方にあたる一つの家の台所で、ちやうど其の時やつて来た大工に何か指図をしてゐる妻のさく子の声が、妙に彼の神経を刺戟《しげき》したのであつた。
 津島はその頃、やつとその家を明けてもらふことが出来て、いくらか助かつたやうな気がしてゐた。彼は年々自分の住居《すまひ》の狭苦しいのを感じてゐた。勿論十人の家族に、畳敷でいへばわづか二十畳か二十四五畳の手狭な家なので、何うにも遣繰《やりくり》のつかないことは、女達に言はれなくとも、今まで住居などには全く何の注意をも払はなかつた、又た払ふ余裕もなかつた津島自身が痛感してゐるのであつた。この二三年、子供達がめき/\生長するにつれて、その問題は一層切迫して来た。
 津島はその頃長らく住んでゐた自宅と、土地の都合でそれに附属してゐる、今一つの家とを、思ひがけなく自分のものにすることができた。彼はさうする前に、自分の家が新らしい家主に渡りかけたところで、明け渡しを迫られたが、借家の払底なをりだつたので、家が容易に見つからなかつた。彼は多勢の子供をひかへて家を追立てられる悲哀と、借家を捜《さが》す困難とを、その時つく/″\感じた。そして友人の助力などで、とにかく其の古屋に永久落着くことになつて、一時|吻《ほつ》としたのであつたが、それだけの室数では、何《ど》うにも遣繰《やりく》りのつかないことが、その後一層彼の頭脳《あたま》を悩ました。彼は家を増築するか、別に一軒家を借りるか、するより外なかつた。入学試験をひかへてゐる子供に、近所で部屋を借りてやつたりして、忙しい時は自分でも旅へ出たり、下宿の部屋を借りて出たりしてゐたが、それよりも前の家主時代から、彼と同じ借家人である、前の家を明けてもらつた方が、何《ど》んなに便利だか知れなかつた。その家は二つに仕切られて、二組の家族が住んでゐた。津島はその一方だけでも立退いてもらふつもりで、交渉してみたけれど、普通の交渉では、迚《とて》も明渡してくれさうになかつた。そして数回の折衝を重ねた結果、到頭《たうとう》法廷にまで持出されることになつたのであつたが、法律家の手に移されてからは、問題は一層困難に陥《おちい》るばかりであつた。ちやうど泥沼へでも足を踏込んだやうな形で、彼も借家人も、全く抜差しのならない破滅《はめ》に引込まれた。
 津島が板塀の節穴などから、間取りの工合などを、時々覗いてみてゐた其の一方の家へ足を容れることのできたのは、二年の後であつた。わづか一夜で、他の弁護士が片着けてくれたのであつた。
 その家は荒れ放題に荒れてゐた。子供達が机でもすゑるやうになる迄には、可なり手がかゝつた。でも津島たちは、いくらか寛《くつろ》ぐことができた。
「一時こゝを湯殿にしようか。」津島は或る日、台所へ入つて見て、ふとそれを思ひついた。
 彼は現在物置になつてゐる湯殿が破損してから、幾年もの長いあひだ、銭湯へ通つてゐた。多分第三回目の妻の妊娠のとき、津島は彼女のために中古の好い風呂桶を見つけて来て、それを湯殿へすゑることになつたのであつたが、それから二三年たつてから、知人が特別に作らせて、その後家の都合で不要になつた巌乗《がんじよう》な角風呂が、持込まれることになつたのであつたが、湯殿が破損してから間もなく、その桶《をけ》にも隙《すき》ができてしまつた。
 彼は銭湯のなかで、色々の人と顔を合したり、挨拶を交したりするのが、年々|煩《わづら》はしくなつてゐた。偶《たま》には子供も洗つてやらなければならなかつた。鬢《びん》の毛などが白くなるにつれて、それが何となし惨《みじ》めくさく感ぜられた。何よりも湯殿の必要を、彼は先づ感じた。
「訳はありませんよ。」妻も同意した。
 だから、今彼女が自分で頼んで来た大工に、この台所を何う云ふ工合に直せるかを相談してゐるのに、不思議はなかつた。そして少しばかり、その声の調子が高かつたからと言つて、さう気にするほどのこともなかつたが、ちやうど其の時、妻に対していくらか不機嫌になつてゐた折だつたので、そんなちよつとした手入れをするのに朝つぱらから、今一つの借家人や隣家へも筒ぬけに聞えるやうな調子で、何か話してゐるのが、いつもの彼女の安価な虚栄心でないにしても、職人などに対して、何かひどく気の利《き》いた風を示さうとでもするやうな浅果敢《あさはか》な悧巧《りかう》さだと思はれて、わざとらしい其の調子が何うにも堪《たま》らない気がしたのであつた。勿論それは津島のみが感じ得ることかも知れなかつたが、年を取つてから出て来た彼女の厭味の一つかも知れないのであつた。男は年を取るに従つて、洗練されて来る。しかし女はその反対だと思はれた。
「何だつてあんな大きな声を出すんだ。」
 暫らくしてから、さく子が此方の家へ来て、茶の間の縁先きで、そこに干してあつた足袋の位置をかへてゐると、津島が座敷の縁へ出て詰《なじ》つた。
 さく子はちよつと驚いたやうな顔を、こつちへ向けた。二人は昨日から口を利かないのであつた。
「何です。」
「あんな調子づいた声を出して、どんな湯殿を作るつもりなんだ。」
「別に大きな声なんか出しやしませんよ。」
「こゝまで筒ぬけに聞えるぢやないか。隣りぢや何《ど》んな普請をするかと思つたに違ひないんだ。」
「可いぢやありませんか。別に悪いことをするんぢやないんですもの。」さく子はさう言つて部屋へ入りかけて、
「あゝ煩《うる》さい。」と眉《まゆ》に小皺《こじわ》を寄せた。
 津島とさく子が不快を感じ合つてゐたといふのも、今までも善くあつた彼女の弟のことからであつた。その弟が津島に対して金銭上で、ちよつと狡《ずる》いことをやつた。預けたものを質へ入れて、放下《ほつたらか》しておいたのが、津島の気を悪くした。その不正なことを、さく子も腹を立ててゐたけれど、其れ以外にも少し金銭上の取引きがあつてそんな事には頭脳《あたま》の働きの鈍い津島に、さく子はいくらか弟の非を蔽《おほ》ふやうな説明を加へたのであつた。津島はその弟に可なりな補助を与へたこともあつたけれど、利き目のないのに懲《こ》りて、さうした交渉は作らないことに決めてゐたのであつたが、ふいと虚につけ込んで小股をすくはれたのが、腹立しかつた。さく子も弟の悪いことは十分知つてゐた。大袈裟《おほげさ》に津島の恩を弟に着せたりすると、それが津島には擽《くすぐ》つたくもあつた。しかしその時は幾らか体裁を作るためにか、それとも気づかずにか、とにかく曖昧《あいまい》にしようとした。が、其よりも差当つて質に入れられたものを、津島は取返さうとした。そして終ひに自分で金を払つて、漸《やうや》く取り返すことができた。その金は僅《わづ》かだつたけれど、人を舐《な》めたやうな彼の態度が憎《にく》かつた。彼はさく子にも当らずにはゐられなかつた。そんな場合に、子供に甘いさく子たちの母親が、誠意をかいてゐることも津島を不快にした。
 津島はさく子に移されて行つた不快が、まだ滓《かす》のやうに腹に残つてゐたので、さうしたさく子の調子が、忽《たちま》ち逆上性の神経を苛立《いらだ》たせてしまつた。
 津島は二言三言応酬してゐるうちに、さく子を打つた。いつもの通り、さく子はそれを避けも逃げもしないのであつた。人が止めるまでは打たせるのであつた。自分で手を上げることも、さう珍らしくはなかつた。
 津島は猛烈に打つた。彼女がいつも頭脳《あたま》を痛がるのは、自分の拳《こぶし》のためだと意識しながら、打たずにはゐられなかつた。近頃の彼に取つては、それはをかしいほど荒れた。そして人々に遮《さ》へられたところで、床の間にあつた日本刀を持出して、抜きかけようとさへした。本統にそんな事のできる自分だとは思へなかつた。子供じみた脅嚇《おどかし》に過ぎないのを愧《は》ぢてゐたけれど、そんな事を遣りかねない野獣性が、どこかに潜んでゐるやうにも思へた。彼はそんな時、幼少の折犬に咬《か》まれて、その犬を殺すために、長い槍《やり》を提げて飛出して行つた老父の姿を思ひ出したりするのであつた。ずつと年を取つて、体の起居の自由が利かなくなつてから、まるで駄々ツ児のやうに、煙管《きせる》を振りあげて母を打たうとした父の可笑《をか》しな表情も目についてゐた。母は※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《とぼ》けた手つきで踊りのやうな身振りをして、却つて父を笑はせてしまつた。
 さく子はしかし剽軽《へうきん》な女ではあつたけれど、決して踊りはしなかつた。蒼《あを》くなつて反抗するのであつた。
 夕方になつてから、津島は大工が張つて行つた、湯殿の板敷を鍬《くは》で叩《たゝ》きこはしてゐた。

 津島がやはり湯殿を利用した方が得だと思つて、妻と一緒に風呂桶を買ひに行つたのは、それから半月もたつてからであつた。そして其の翌日風呂桶が屈けられて、急拵への煙突なしで、石炭が焚《た》かれた。
 津島は久しぶりで、内湯へ入ることができたが、周囲が小汚いので、気持は余りよくなかつた。それに広々とした湯殿へ入りつけてゐたので、さうやつて風呂桶のなかへ入つてゐるのが窮屈であつた。
「この桶は幾年|保《も》つだらう。」彼はいつもの癖でそんなことを考へた。
「おれが死ぬまでに、この桶一つで好いだらうか。」と、さう思つて見た。
 すると其が段々自分の棺桶のやうな気がして来るのであつた。
[#地から1字上げ](大正十三年八月)



底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
  
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