いのであつた。彼は浮《うわ》の空《そら》で話のばつだけを合してゐた。それは板塀《いたべい》一つ隔てた、津島の書斎から言へば、前の方にあたる一つの家の台所で、ちやうど其の時やつて来た大工に何か指図をしてゐる妻のさく子の声が、妙に彼の神経を刺戟《しげき》したのであつた。
津島はその頃、やつとその家を明けてもらふことが出来て、いくらか助かつたやうな気がしてゐた。彼は年々自分の住居《すまひ》の狭苦しいのを感じてゐた。勿論十人の家族に、畳敷でいへばわづか二十畳か二十四五畳の手狭な家なので、何うにも遣繰《やりくり》のつかないことは、女達に言はれなくとも、今まで住居などには全く何の注意をも払はなかつた、又た払ふ余裕もなかつた津島自身が痛感してゐるのであつた。この二三年、子供達がめき/\生長するにつれて、その問題は一層切迫して来た。
津島はその頃長らく住んでゐた自宅と、土地の都合でそれに附属してゐる、今一つの家とを、思ひがけなく自分のものにすることができた。彼はさうする前に、自分の家が新らしい家主に渡りかけたところで、明け渡しを迫られたが、借家の払底なをりだつたので、家が容易に見つからなかつた。彼は多勢の子供をひかへて家を追立てられる悲哀と、借家を捜《さが》す困難とを、その時つく/″\感じた。そして友人の助力などで、とにかく其の古屋に永久落着くことになつて、一時|吻《ほつ》としたのであつたが、それだけの室数では、何《ど》うにも遣繰《やりく》りのつかないことが、その後一層彼の頭脳《あたま》を悩ました。彼は家を増築するか、別に一軒家を借りるか、するより外なかつた。入学試験をひかへてゐる子供に、近所で部屋を借りてやつたりして、忙しい時は自分でも旅へ出たり、下宿の部屋を借りて出たりしてゐたが、それよりも前の家主時代から、彼と同じ借家人である、前の家を明けてもらつた方が、何《ど》んなに便利だか知れなかつた。その家は二つに仕切られて、二組の家族が住んでゐた。津島はその一方だけでも立退いてもらふつもりで、交渉してみたけれど、普通の交渉では、迚《とて》も明渡してくれさうになかつた。そして数回の折衝を重ねた結果、到頭《たうとう》法廷にまで持出されることになつたのであつたが、法律家の手に移されてからは、問題は一層困難に陥《おちい》るばかりであつた。ちやうど泥沼へでも足を踏込んだやうな形で、彼も借家
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