つて来た。
 踊り場のある町までは、少し距離があつたけれど、乗りものを借りるほどのことはなかつた。
 私は「ちよつと歩いて来ます。」といつて、例の冬ズボンにカシミヤの上衣を着て外へ出ると、通りつけの道を急いだ。どこも彼処《かしこ》も夢のやうに静かで、そして仄暗《ほのぐら》かつた。
 その町はこの市の本通り筋の裏にあつた。そこで小説家のK―が育つた。私はどこにも踊り場らしいものの影を見ることが出来ずに、相当に長いその通りを、往つたり来たりした。私はその踊り場が、この市の唯一のダダイストである塑像家《そざうか》M―氏の経営(さう大袈裟《おほげさ》なものではないだらうが)に係るものだことを、昨日坊さんから聞いてゐたので、その点でもいくらか興味があつた。
 到頭《たうとう》私はソシアル・ダンスと紅《あか》い文字で出てゐる、横に長い電燈を見つけることが出来た。往来に面した磨硝子《すりガラス》に踊つてゐる人影が仄《ほの》かに差して、ヂャヅの音が、町の静謐《せいひつ》を掻乱《かきみだ》してゐた。
 意気な格子戸のある入口がその先きにあつた。格子戸は二色の色硝子で縞《しま》になつてゐた。入ると、土間の直ぐ右側にカアテンが垂れてゐて、その傍に受付があり、左側の壁に規則書の掲示があつた。
 ホールはM―氏のアトリエで、全部タタキで、十坪ばかりの広さをもつてゐた。
 私は早速チケットを買つた。東京の教習所から見ると、誰とでも踊れるだけ自由がきいた。私はダンサアらしい三人ばかりの娘達と、四十がらみの洋装と、それより少し若い和装の淑女と長椅子にかけてゐる反対の側の椅子にかけて、二組出てゐる踊りを見てゐたが、ステップはみな正しいもので、踊り方も本格であつた。
 黄金色をした大きな外国の軍人の塑像が、アトリエの隅の方に聳《そび》え立つてゐるのが目につくきりで、テイプやシェードの装飾はしてなかつた。
 私は靴底のざら/\するタタキを気にしながら、二回ばかりトロットを踊つてみたが、その娘さんは略《ほゞ》二流どころのダンサアくらゐには附合つてくれた。
 草履ばきで、踊りなれのした足取りで踊つてゐる、髪の長い中年の男が、マスタアのM―氏だと思はれたので、私は近づいて名刺を出した。
「しばらく御滞在ですか。」
「いや、明後日の夜行で帰るつもりです。こゝには誰も話相手がゐないので……。」
 私は今踊つた人がM―氏の令嬢で、もう一人の美しい人が姪《めひ》で、今一人の娘さんが友達だことを知つた。
「私は兎に角正しい踊りを教へるつもりで、遣《や》つてゐますが、この町にも社交ダンスは拡《ひろ》まるだらうと思ひます。」
「床が板でないので、少し憂欝《いううつ》ですね。」
「さうしようかと思つたんですけれど……。」
「どんな人が踊りに来ますか。」
「いろ/\です。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。」
 汗がひいたところで、私はまたざら/\するフラワへ踊り出したが、足の触感が不愉快なので、踊つたやうな気持にはなれなかつた。
 私は椅子にかけて、煙草をふかした。
 すると先刻《さつき》から踊りを見物してゐた、洋装の婦人が、いきなり席を離れて、つか/\私の方へ寄つて来た。
「あなたはT―先生でいらつしやいましたね。」
 さう言葉をかけられたので、私は彼女が誰だかを思ひ出さうとして、その顔を見あげた。
「さうです、貴方《あなた》は誰方《どなた》でしたつけ。」
「私山岡ですの。つい先生のお近くの……。」
 私はまだ思ひ出せなかつたが、巴黎院《パリーゐん》といふ、一頃通りで非常に盛《さか》つた理髪店のマダムの面影が、何《ど》うやら漸《やつ》とのことで思ひ出せた。マスタアは洋行帰りのモダンな紳士であつた。しかしそれだか何《ど》うだか、分明《はつきり》したことはわからなかつた。
「こちらへ何《ど》うして来てゐるんですか。」私は当らず触らずに聞いた。
「こちらの三越の婦人部にをりますの。お序《ついで》があつたら、お寄り下さいまし。」
「は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。」
「えゝ、ちよつと拝見に。」
 婦人は元の席へ戻つたかと思ふと、間もなく連れの婦人と一緒に、アトリエを出て行つた。
 私は政治に興味を寄せたりして、終ひに店を人に譲つて、郊外へ引越して行つた巴黎院《パリーゐん》のマスタアのことを考へてゐた。マダムが、職業婦人として、こんなところへ来るやうでは、あの夫婦も余り幸福ではなささうであつた。それに私の嗅覚によると、あのマダムは私の隣国の産れに違ひないのであつた。
 汚い黒の洋服を着た、若い男が一人、入替りに入つて来て、私の傍に腰をかけた。
「こゝは何ういふ風《ふう》にすればいゝですか。」
「いや、やつぱりクウポン制度です。」
「あのお嬢さんたちに申込んでも構はんです
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