な気がして、胸がどきりとした。
 やがて門の方から奥庭へ入って行く男の姿が、目に入った。男は庭の真中に立って、うそうそ家のなかを見廻していた。お庄は帳場格子の蔭に深くうつむいてしまった。男は確かに磯野であった。

     七十八

「お客さまが若い方のお神さんに、ちょっといらして下さいってそうおっしゃるんですよ。」と、一人の女中が莨盆などを運んで行ってから、やがてお庄を呼びに来た。
 お庄はその時帳場を離れて、料理場から物置の方へ出ていた。
「私に。」と、お庄はじめじめした物置の蔭に積んである薪《まき》に体を凭《もた》せていながら、胸を騒がせた。
「あの人が私を知っているとでも言うの。」
「何ですか、ただお目にかかりさえすれば解るからって……。」
 お庄はそこから庭の方へそっと出て行って見た。あれほど不人情な仕向けをしておきながら、のこのこ嫁入り先へやって来た男の愚かしい心持が腹立たしいようであったが、床柱のところに胡坐《あぐら》を組んで、団扇《うちわ》遣いをしているその姿が目に入ると、何のことも考えていられなくなった。
「しばらくだったね。」と、磯野に挨拶されると、お庄は胸が一杯に
前へ 次へ
全273ページ中245ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング