る宿屋へ来て、自分の事情を話して帰ったきり、幾度訪ねても逢わなかった。手紙を出しても来なかった。
 三月ほど経って、兄が女を連れ戻しに行ったころには、女は金も持物もなくして、霙《みぞれ》の降る北国の寒空に、着るものもなくて、下宿屋に下女働きをしていた。田舎へ引き戻されてからも、町に落ち着いていることも出来なかった。許婚先へ対しても、家にいるのがきまり悪かった。
「どうせ私は田舎などへ帰りゃしませんよ。嫁にだって行きゃしません。家で怒ってかまわなくなったって何でもありゃしない。金沢で下宿の厠《はばかり》の掃除までしたことを思や、自分一人ぐらい何をしたって食べて行かれますよ。」女は太腐《ふてくさ》れのような口を利いた。
「一人でやって行くなら、碁会所でも出したらどうだ。」叔父はこの女に時々そんな心持も洩らした。
「彼奴《あいつ》も変だが、小崎さんも少しひどいや。」と丸山は、叔父の田舎へ行っている留守に、折々茶を呑みに来ては、お照の噂をして母親に厭味を言った。
 女はお庄の家へ来て、机に坐って叔父へ長い手紙を書いた。手紙にはお庄に解らないようなむずかしいことが書いてあった。女は小説でも読むよ
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