が目についた。お庄は入口の方に坐って、しばらくぼんやりしていた。
「あんたも来て手伝って頂戴。」
 女は骨盤の押し開いたような腰つきをして、片隅に散らかったものを忙しそうに取り纏《まと》めていた。
 お庄は気爽《きさく》に返事をして、急いで傍へ寄って行った。
 その晩から、お庄は衆《みんな》に昵《なじ》んだ。

     二十五

 正雄がある朝十時ごろに、一《いち》の家《や》を訪ねて行くと、お庄は半襟《はんえり》のかかった双子《ふたこ》の薄綿入れなどを着込んで、縁側へ幾個《いくつ》も真鍮《しんちゅう》の火鉢を持ち出して灰を振《ふる》っていた。お庄が身元引受人に湯島の主婦《あるじ》を頼みに行ったとき、主婦はニヤニヤ笑って、
「お前そんなことをしてもいいだかい。自分の娘のことじゃないから、私はまア何とも言わないが、長くいるようじゃダメだぞえ。」と、念を押しながら判を捺《お》してくれた。
 お庄は二日ばかりの目見えで、毎日の仕事もあらまし解って来た。家の様子や客の風も大抵|呑《の》み込めた。どこのどんな家のものだか知れないような女連の中に交じって立ち働くのも厭なようで、自分にもそれほど気が進んでもいなかったが、日本橋の方へ帰って、気むずかしい老人夫婦ばかりの、陰気な奥の方を勤めるのも張合いがなかった。
「今いる家は、体が楽でも気が塞《つま》っていけないそうで……。」と、母親も傍から口を添えた。
 お庄はここへ書附けを入れてから、もう二タ月にもなった。
 お庄は裏口の戸の外に待っている正雄の姿を見ると、顔を赧《あか》くして傍へ寄って行ったが、目に涙がにじんだ。明けると十四になる正雄の様子は、しばらくのまにめっきり下町風になっていた。頭髪《かみ》を短く刈り込んだ顔も明るく、縞《しま》の綿入れに角帯をしめた体つきものんびりしていた。
「何か用があったの。」とお庄は何か語りそうな弟の顔を見た。
「いいえ。」正雄は頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「どうしてここにいることが解ったの。阿母《おっか》さんに聞いて来たの。」
 それぎりで、二人は話すことも、想い出せないような風で立っていた。
 しばらくたつと、お庄は顔や髪などを直して、出直して来た。大きい素足に後歯《あとば》の下駄をはいて、意気がったような長い縞の前垂を蹴るようにして蓮葉に歩き出すと、やがて芝居や見世物のある通りへ弟を連れ出して来た。
 見世物場はまだそれほど雑踏していなかった。帽子も冠《かぶ》らないで、ピンヘットを耳のところに挟んだような、目容《めつき》のこわらしい男や、黒足袋をはいて襷がけしたような女の往来《ゆきき》している中に、子供の手を引いた夫婦連れや、白い巾《きれ》を頚《くび》に巻いた女と一緒に歩いている、金縁眼鏡《きんぶちめがね》の男の姿などが、ちらほら目についた。二人はその間をぶらぶらと歩いていたが、弟はどこを見せても厭なような顔ばかりしていて、張合いがなかった。お庄は見世物小屋の木戸口へ行って、帯のなかから巾着《きんちゃく》を取り出しながら、弟を呼び込もうとしたが、弟はやはり寄って来なかった。
「何か食べる方がいいの。」お庄は橋の手摺りに倚《よ》りかかって、あっちを向いている弟の傍へ寄り添いながら訊いたが、弟はやはり厭がった。
「じゃ、何か欲しいものがあるならそうお言いなさい。姉さんお鳥目《あし》があるのよ。」
「ううん、お鳥目《あし》なんか使っちゃいけない。」弟はニヤニヤ笑った。
 二人は橋を渡って木立ちの見える方へ入って行った。弟は姉と一緒に歩くのが厭なような風をして、先へずんずん歩いた。
 別れる時、お庄は片蔭へ寄って、巾着から銀貨をあらまし取り出して渡した。
「姉さんも早くあの家を出るようにしておくれ。」と、弟の言ったのを時々思い出しながら、お庄は裏通りをすごすごと帰って行った。

     二十六

 帰って行くと、内儀《かみ》さんが帳場の方に頑張《がんば》っていた。
 内儀さんは上州辺の女で、田舎で芸妓《げいしゃ》をしていた折に、東京から出張っていた土木の請負師に連れ出されて、こっちへ来てから深川の方に囲われていた。ここの老爺《おやじ》と一緒になったのは、その男にうっちゃられてから、浅草辺をまごついていた折であった。前の内儀さんを逐《お》い出すまでには、この女もいくらかの金をかけて引っ張って来た老爺の手から、幾度となく逃げて行った。今茲《ことし》十三になる前妻の女の子は、お庄がここに来ることになってから、間もなく鳥越《とりごえ》にいる叔母の方へ預けられた。この継子《ままこ》を、内儀さんがその父親の前で打《ぶ》ったり毒突いたりしても、爺さんは見て見ない振りをしていた。
「それアひどいことをするのよ。」と、女中たちは蔭で顔を顰《しか》め合った。
「あんなにいび
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