一つが、それであった。まだ木の香のするようなその建物について、裏へ廻ると、じきに石炭殻を敷き詰めたその家の勝手口へ出た。
新壁の隅に据えた、粗雑《がさつ》な長火鉢の傍にぽつねんと坐り込んでいる母親の姿が、明け放したそこの勝手口からすぐ見られた。台所にはまだ世帯道具らしいものもなかった。裏は崖下《がけした》の広い空地で、厚く繁《しげ》った笹《ささ》や夏草の上を、真昼の風がざわざわと吹き渡った。
お庄は母親の隠れ家へでも落ち着いたような気がして、狭い茶の室《ま》へ坐り込んで日の暮れまで話し込んでいた。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2003年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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