たりに、何やら入れ墨のようなものを描いて、にやにやしていた。
「知っていますよ。」
 お庄はその悪戯書きを見て見ぬふりをしていたが、終いに一緒に噴《ふ》き出してしまった。
「叱られますよ。」とお庄はまた本気《むき》になって見せた。その顔は紅《あか》かった。
 く、く、くと鳴いている鶏《とり》の世話をしに芳太郎は裏の方へ出て行った。お庄も砂埃を拭き掃除しようと思ったが、初め来たころ日課にしていたようには働けもしなかった。今日逃げようか、明日は出ようかという気が、始終|頭脳《あたま》にあった。
 浅山のうちでも、長く続かないことが解って来た。いつかお庄が、夜その相談に行ったときも、夫婦は、もう断念《あきら》めてしまったような口吻《こうふん》を洩らしていた。
「私たちが黒幕にいるように思われちゃ、事が面倒ですよ。中村さんにも気の毒ですから、誰も知らない風にして、うまく逃げられたらお逃げなさい。そうすれば、私たちにも責任はないし、中村の顔も立つんですから。」と、従姉《あね》は内々でお庄を唆《そその》かした。
 お庄はそれから、時々風呂敷に包んで、着物や何かを、夜|従姉《あね》の家へ持ち込むことにした。家からも、中村の家へ持ち運ぶように見せかけて、少しずつ取り出すことを怠らなかった。中には以前磯野から受け取った手紙を封じ込んだ背負《しょ》い揚《あ》げや、死んだ叔母から伝わった歌麿《うたまろ》の絵本などがあった。その絵本を、ほかの物と一つに、お庄は磯野と質に入れたこともあったが、芳太郎のところへ来てから間もなく、やっと取り出すことが出来た。お庄はその値打ちのものだということを、磯野に聴いて知っていた。
「まかり間違って、茨城にいるお照さんのところへ訪ねて行くにしても、これを売りさえすれば旅費ぐらいは出来る。」
 お庄は中村や芳太郎の手からのがれたとき、切迫《せっぱ》つまって来れば、自分はどこへ行く体か解らないと思った。そして、その方がどんなに自由だか知れないとも考えた。
 お庄は箪笥の底から持ち出して、従姉《あね》の家へその絵本の入った手匣《てばこ》を持ち込む時も、そっと中から出して、黴《かび》くさい絵を従姉に見せながら、その値踏みなどをしてもらった。

     八十五

「そう毎日ぶらぶら遊んでばかりいるのが、大体よろしくない。」世話好きな中村は、会社から退《ひ》けて来ると、芳太郎に何か叱言《こごと》を言いながら言った。
 芳太郎はまだ庭で鶏《とり》を折打《せっちょう》していた。鶏は驚きと怖れに充血したような目をして、きょときょとと木蔭をそっちこッち遁《に》げ廻った。木の下や塀の隅はもう薄暗くなっていた。芳太郎は竿でその鶏をむやみに逐《お》い廻していた。そこへ洋服姿の主《あるじ》が、縁から降りて来たのであった。
 二人で鶏を鶏舎《とや》へ始末をしてから、縁側の方へ戻って来ると、中村は愚かしい芳太郎に、いつも言って聞かせるようなことを、また繰り返した。
「まさか労働するわけにも行くまいが、何しろ若いものが遊んでいてはいけない。体が怠けるばかりだ。お神に堅くなったという証拠を見せるつもりで、一時こういうところへ出てみてはどうかね。」と、中村はその時自分の知っている通運会社のことを言い出した。
 芳太郎は荒い息をしながら、縁に腰かけて黙って莨《たばこ》を喫《ふか》していたが、するうちに手拭や石鹸《せっけん》を持ち出して湯に行った。
 お庄や細君――女連は土台の腐れた古い湯殿で毎日行水を使うことになっていた。
 麹町《こうじまち》の方の会社へ出るようになってから、芳太郎はこれまでのように朝寝をしていることも出来なかった。
 店の忙《せわ》しいとき、芳太郎は夜おそく帰るような日が二、三日続いた。
 お庄は押入れの行李のなかに残っていたものを、萌黄《もえぎ》に唐草《からくさ》模様の四布《よの》風呂敷に包んで、近所からやとって来た俥に積み、自分もそれに乗って、晩方中村の邸を出た。
 大雨がざあざあ降っていて、外は真暗であった。中村はちょうど留守であったし、広い茶の室《ま》で晩飯の餉台《ちゃぶだい》に就いている細君も老人《としより》もそんな荷を持ち出したことに気がつかなかった。荷の中には、鏡台のような稜張《かどば》った物もくるまれてあった。お庄は自分の部屋の縁側から、ばしばし雨滴《あまだ》れのおちる廂際《ひさしぎわ》に沿《つ》いて、庭の木戸から門までそれを持ち出さなければならなかった。夜具などは後でどうでもなると思ったが、少しばかりの軟かい着替えや手廻りの物を、芳太郎の目の前に遺《のこ》しておくのは不安心であった。
「阿母さんの手隙《てすき》に洗濯や縫直しをしてもらいたいものがありますから。」と、お庄はそんなにびくびくすることもないと思ったので、荷を
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