「阿母《おっか》さんも行くなら行っておいでなさいよ。たまにゃ外へも出て見るといいのよ。」お庄は家へ帰って行くと、今やっと行水から上ったばかりの母親を促した。母親はにやにやした顔で二人を見迎えたが、女中と一緒に買物がてらお庄から金を渡されて出て行くまでには、大分暇がかかった。
 中江という医学生のところへよく遊びに来る、お増という女が二階から降りて来ると、二人のなかへ割り込んで、辻占入《つじうらい》りの細かい塩煎餅《しおせんべい》を摘《つま》みながら、間借りをしている自分の宿やここへ出入りする男の品評などを始めた。この女はもう二十六、七であった。縁づいていた田舎医師の家で不都合なことがあって、子供のあるなかを暇を出されてから、東京へ来て長い間まごついていたことを、お庄も中江などから聞いて知っていた。「お前のような女には手切れの金より着物の方が身について安全だろう。」と言って、その良人から拵えてもらった支度が亡《な》くなった時分には、もういろいろの男を亭主に持って来たことを、女の口からもたびたび聞かされた。女はしみじみした調子で亭主運の悪いことをよく零《こぼ》した。行き詰って、田舎の医師の家へまた詫《わ》を入れに行ったとき、姑《しゅうとめ》が頑張《がんば》っていて、近所に取っていた宿から幾度逢いに行っても逢うことが出来なかった。女は夜更けてから梯子をさして、そっと二階の主《あるじ》の部屋の戸を敲《たた》いたが、やはり入ることが出来ずに、外から悪体を吐《つ》いて帰って来た。
「私あんなくやしかったことはありゃしませんよ。」と、女は目に涙をにじませて、自分と自分の興味に耽《ふけ》りながら話していた。
「まあ聞いて下さいよお庄ちゃん――。」と、女は今度の試験を、長く一緒にいる男がまた取り外してしまったことを零しはじめた。
「あんなに私が一生懸命になって、図書館に通わしてやっても、駄目なものはやはり駄目なんでしょうかね。これからまた一年、毎日毎日お弁当を拵えてやらなけアならないのかと思うと、私うんざりしちまいますよ。」お増は磯野に莨を吸いつけてやりながら、哀れな声で言った。
「今度私磯野さんに芝居を奢《おご》って頂きましょう。ねえお庄ちゃんいいでしょう。」お増は帰りがけに、甘い調子で磯野に強請《ねだ》った。
「あの人は芝居がどのくらい好きだか――。」と、お庄は後で磯野に話した。
「芳村さんには煮豆ばかり食べさしておいて、暇さえあると自分は芝居へ行ってるの。」
「ふとすると家の中江に乗り換えようとしているんかも知れないね。若い人から絞るという話もあるぜ。」と、磯野は笑った。
「そうでもしなくちゃ、芝居道楽が出来ないでしょう。」
 磯野がお庄の詰めてくれた弁当を持って、朝おそく、学校へ出て行った。
 お庄は磯野の出たあとの部屋を自身綺麗に取り片着けながら、磯野の蒲団のうえに坐って、時計のオルゴルを鳴らして見たりした。
 お庄は机の抽斗《ひきだし》を開けて見た。抽斗からは、コスメチックや香水のような物が出た。写真や手紙なども出た。手紙のなかには磯野がよく行ったことのある小塚から来たらしいのもあった。お庄はそれを読みながら、劇《はげ》しい耳鳴りを感じた。舌も乾くようであった。
 昼過ぎに、軽い夏の雨が降って来た。お庄は着物を着替えて、蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って学校まで出かけて行った。そして路傍《みちわき》の柳蔭にたたずんで、磯野の出て来るのを待っていた。

     六十

 盆時分に問屋の決算をしに出て来て小網町の方に宿を取っていた兄が帰る時、磯野も一緒に田舎へ行くことになった。磯野が兄の取引き先から二十円三十円と時借りをした金の額の少くないことが、その時すっかり解った。お庄のところへ来たてに磯野はそんな金で、軟かい着物を拵えたり、持物を買ったりして景気づいていたが、湯島|界隈《かいわい》の料理屋にもちょいちょい昵近《ちかづき》の女があった。お庄と一緒に歩いている時、磯野は途《みち》で知った女に逢うと、こっちから声をかけて、お庄をそっち退《の》けに、片蔭でひそひそ話をすることがたびたびあった。
「あれには僕が少し義理の悪い借金もある。いつか芸者の祝儀を立て替えさしてそれッ放しさ。」と、磯野は何か思い出したような顔をして、またお庄と一緒に歩いた。
 磯野がいろいろの女を知っていることが、お庄にも解って来た。
 部屋で机のなかから写真を出して見ていると、磯野は手切れまで取られて別れた一年前の女をまた憶い出した。そしてお庄の見ている傍で急に思い着いて手紙を書きはじめた。
「厭な人ね。」と、お庄は机の端に両肱《りょうひじ》をついて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っていたが、いきなり手を伸ばして巻紙を引っ褫《たく》った。
「何大
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