ないような指頭《ゆびさき》に、やっぱり針を放さなかった。
「もう年が年だから、弟もちっとは考えていますらい。」と、弟|贔屓《びいき》の母親は眠そうな顔をあげた。
「それに私も、この年になるまで子がないもんですからね。」
「まだないという年でもござんすまいがね。弟だって、四十には三年も間のあることだもんだから……。」
 お庄はやがてこの叔母の傍へ寝かされた。叔母は床についてからも、折々寝返りをうって、表を通る俥や人の足音に耳を引き立てているようであった。するうちお庄はふかふかした蒲団に暖められて快い眠りに沈んだ。

     三十一

 翌朝目がさめて見ると、叔父はまだ復《かえ》っていなかった。明け方近くに、ようやく寝入ったらしい叔母は、口と鼻の大きい、蒼白いその顔に、どこか苦悩の色を浮べて、優しい寝息をしながら、すやすやとねていた。頬骨《ほおぼね》が際立って高く見えた。お庄は何だか淋しい顔だと思って眺めていた。
 お庄は仮りて着て寝た叔母の単衣物《ひとえもの》をきちんと畳んで蒲団の傍におくと、そッと襖《ふすま》を開けて、暗い座敷から茶の間の方へ出た。台所では、母親がもう働いていた。七輪に火も興《おこ》りかけていたし、鉄瓶にも湯を沸かす仕掛けがしてあった。お庄も襷がけになって、長火鉢の掃除をしたり茶箪笥に雑巾をかけたりした。
 そこらが一ト片着き片着いてしまうと、衆《みんな》は火鉢の傍へ寄って、母親が汲《く》んで出す朝茶に咽喉《のど》を潤《うるお》した。鶴二も正雄も、もう朝飯の支度の出来た餉台《ちゃぶだい》の側に新聞を拡げて、叔母の起きて出るのを待っていた。
 するうちに座敷の方へ日がさして、朝の気分がようやく惰《だら》けて来た。東京地図を畳んだり拡げたりして、今日見て歩くところを目算立《もくさんだ》てしていた鶴二は、気がいらいらしてきたように懐中時計を見ては、しきりに待ち遠しがっていた。母親も茶碗を手にしながら欠《あくび》をしだした。お庄は二人に飯を食べさしてから、正雄に小遣いを少し持たして鶴二と一緒に出してやった。正雄は暮から学校の方も休《よ》していた。
「頭脳《あたま》の悪いものは、強《し》いて学問などさして苦しますより、いっそ商売を覚えさすか職人にでもした方が早道だそうでね。」と母親は叔父の言ったことをお庄に話した。
「どっちにしても、叔父さんが今に資本《もと
前へ 次へ
全137ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング