ろの話に引き寄せられていたお庄は、しばらくこの主人とも疎《うと》くなったような気がしていた。
内儀さんは樟脳《しょうのう》の匂いの染《し》み込んだような軟かいほどきものを一枚出して、お庄に渡した。
「お前、旦那《だんな》がお留守で、あんまり閑《ひま》なようなら、ちっとこんなものでもほどいておくれ。」
お庄はそれを持って引き退《さが》って来たが、今急に手を着ける気もしなかった。
水天宮へ出かけて行った店の若い人たちが、雨に降られてどかどか[#「どかどか」に傍点]と帰って来た時分には、お庄もお鳥の帰りが待ち遠しいような気がして来た。そして明りの下でほどきものをしながら、心にいろいろのことを描いていた。
お鳥の帰ったのは、その翌朝であった。
「どうも済みません。」
お鳥は疲れたような顔をして、紅梅焼きを一ト袋、袂の中から出すと、それを棚の上において、不安らしくお庄の顔を見た。お庄はまだ目蓋《まぶた》の脹《は》れぼったいような顔をして、寝道具をしまった迹《あと》を掃いていた。お鳥は急いで襷《たすき》をかけて、次の間へハタキをかけ始めた。
二十二
お庄は久しぶりで湯島の方へ帰って行った。もといた近所を通って行くのはあまりいい気持でもなかったし、母親の顔を見るのも厭なような気がして、お庄は日蔭もののように道の片側を歩いて行った。昨夜《ゆうべ》お鳥のところへこの間の話の人にいい口があると言って、浅草の方から葉書で知らせて来た。先方は食物屋《たべものや》で、家は小さいけれど、客種のいいということは前からもお鳥に聞かされていた。それに忙《せわ》しいには忙しいが芸者なども上って、収入《みいり》も多いということであった。体が大きいから、年などはどうにもごまかせると言って、お鳥は女文字のその葉書を見せた。お庄は何だか担《かつ》がれでもするようで、こわかったが、行って見たいような心がしきりに動いた。お庄はもう半分、ここにいる気がしなかった。
下宿へ入って行くと、下の方には誰もいなかったが、見馴れぬ女中が、台所の方から顔を出して胡散《うさん》そうにお庄を眺めた。そこらはもう薄暗くなっていた。
母親は二階の空間で、物干しから取り込んだ蒲団の始末をしていた。窓際に差し出ている碧桐《あおぎり》の葉が黄色く蝕《むしば》んで、庭続きの崖《がけ》の方の木立ちに蜩《かなかな》が
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