の白い、目の細い、口の利《き》き方の優しい男であった。
 主婦がその部屋へ入り込んでいるのを、お庄は幾度も見た。
「ちょいとちょいと、面白いものを見せてあげよう。」剽軽《ひょうきん》な女中はバタバタと段梯子《だんばしご》から駈け降りて来ると、奥の明るみへ出て仕事をしているお庄を手招ぎした。
 女中は二階へあがって行くと、足を浮かして尽頭《はずれ》の部屋の前まで行って、立ち停ると、袂で顔を抑えてくすくす笑っていた。
 十時ごろの下宿は、どの部屋もどの部屋もシンとしていた。置時計の音などが裏《うら》からかちかち聞えて、たまに人のいるような部屋には、書物の頁《ページ》をまくる音が洩れ聞えた。
 お庄は逃げるように階下《した》へ降りて行くと、重苦しく呼吸《いき》が塞《つま》るようであった。
 お庄は冬の淋しい障子際に坐って、また縫物を取りあげた。冷たい赭《あか》い畳に、蝿《はえ》の羽が弱々しく冬の薄日に光っていた。

     十三

 横浜の店をしまって、一家の人たちがまた東京へ舞い戻って来るまでには、お庄も二、三度その家へ行ってみた。
 家は山手の場末に近い方で、色の褪《あ》せたような店には、品物がいくらも並んでいなかった。低い軒に青い暖簾《のれん》がかかって、淋しい日影に曝《さら》された硝子《ガラス》のなかに、莫大小《メリヤス》のシャツや靴足袋《くつたび》、エップルのような類が、手薄く並べられてあった。
 飴屋《あめや》の太鼓の周《まわ》りに寄っている近所の鍛冶屋《かじや》や古着屋の子供のなかに哀れなような弟たちの姿をお庄は見出した。弟たちは、もうここらの色に昵《なじ》んで、目の色まで鈍いように思えた。
「正《まさ》ちゃん正ちゃん。」と、お庄が手招ぎすると、一番大きい方の正雄は、姉の顔をじっと見返ったきり、やはりそこに突っ立っていた。
 上って行くと、荒《さび》れたような家の空気が、お庄の胸にもしみじみ感ぜられた。母親は、この界隈《かいわい》の内儀《かみ》さんたちの着ているような袖無しなどを着込んで、裏で子供の着物を洗っていた。目の色が曇《うる》んで、顔も手もかさかさしているのが、目立って見えた。
 母親は傍へ寄って行くお庄の顔をしげしげと見た。頬や手足の丸々して来たのが、好ましいようであった。
「湯島じゃ皆な変りはないかえ。」
 お庄は台所の柱のところに凭《もた》れ
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