持ち出す前にちょっと二人の前へ出て断わった。
「昼間風呂敷包みを持ち出すのもおかしゅうござんすから。」と、お庄はそうも言って、胸をそわそわさせながら二人の傍をやっと離れた。
 ここの女たちは、いつお袋や爺さんの機嫌が直って、芳太郎が家へ入るようになるか解らなかった。これまでちょいちょい人に貸したりなどしている部屋を、この夫婦のために長く塞《ふさ》げておくのも惜しかった。細君が主《あるじ》の好奇《ものずき》を喜ばない気振りが、お庄には見えすくように思えて来た。お庄ら夫婦がこの家へ住み込むようになってから、もう一ト月と十日余りになっていた。
 俥の柁棒《かじぼう》が持ち上げられた時、お庄はようやくほっとしたような目つきになった。
 従姉《いとこ》の家へ着くまで、お庄は後から追い駈けられるような気がしていたが、着いてからも気が気でなかった。
 包みはすぐ奥の押入れへ隠されたが、お庄は下駄や傘までも気にして、裏の方へ廻した。
「芳がきっと来ますよ。」と、お庄は落ち着いて坐ってもいられなかった。
「今ごろは押入れでも開けて見て、びっくりしているかも知れませんよ。」
 時計を見ると、芳太郎がいつも帰って来る時分までには、たっぷり一時間の余裕があった。

     八十六

 その晩のうちに、お庄は雨のなかを湯島まで逃げて来た。
 目立たぬ黒絣《くろがすり》の単衣《ひとえ》のうえに、小柄な浅山のインバネスなどを着込んで、半分|窄《つぼ》めた男持ちの蝙蝠傘《こうもりがさ》に顔を隠し、裾を端折《はしょ》って出て行くお庄のとぼけた姿を見て、従姉《あね》は腹を抱えて笑った。
「かまうもんですかよ。彼奴《あいつ》にさえ見つからなけアいいんだ。」と、お庄は用心深く暗い四下《あたり》を見廻しながら出て行った。
 寂しい士官学校前から、広い濠端《ほりばた》へ出たころには、強い風さえ吹き添って来た。お庄は両手で傘に掴《つか》まりながら、すたすたと走るようにして歩いた。俥があったら乗ろうと思ったが、提灯《ちょうちん》の影らしいものすら見当らなかった。見附《みつけ》の方には、淡蒼《うすあお》い柳の蔭に停車場《ステイション》の明りが見えていたが、そんなところへ迂闊《うかつ》に入り込んで行くことも出来なかった。
 そこからは道が一条《ひとすじ》であった。神楽坂《かぐらざか》の下まで来ると、世界がにわかに明
前へ 次へ
全137ページ中135ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング